斎藤 雅樹 
 1965年2月埼玉県生まれ。右投右打。投手。背番号41→11。市立川口高校を経て1983年にドラフト1位で巨人に入団。1年目にオーバースローからサイドスローに転向。
 2年目に4勝0敗という成績を残し、3年目には12勝を挙げる。
 その後、低迷していたが1989年に20勝7敗、防御率1.62という好成績で最多勝を獲得。チームもリーグ優勝、そして日本一になっている。またこの年に11連続完投勝利という快記録を達成している。
 翌年も20勝5敗、防御率2.17で2年連続最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝に大きく貢献してMVPを獲得した。
 その後も、桑田・槙原と並んで巨人の「先発3本柱」と呼ばれて1992年にも17勝で最多勝、1995・1996にも18勝・16勝で連続最多勝を獲得した。1996年には防御率2.36で3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得するなど、巨人の大エースとなった。
 1994年の日本一、1996年のリーグ優勝、2000年の日本一にも貢献している。また最多勝5度、沢村賞3度はいずれも歴代1位の記録である。
 1997年以降は故障の連続で本来の成績を残せないまま、2001年に現役を引退し、コーチとなる。
 サイドスローから繰り出す140キロ台半ばから後半の直球と右打者の外角に逃げていく高速スライダーとカーブで、打者に付け入る隙を与えない完璧な投球をする投手である。
 数々のタイトルを手中にしているところから見ても、1990年代最高の投手であったことは間違いない。

通算成績(実働18年):180勝96敗11セ、防御率2.77。最高勝率3回(1990,1992,1996)最優秀防御率3回(1989,1990,1996)最多勝5回(1989,1990,1992,1995,1996)最多奪三振1回(1995)
シーズンMVP1回(1990)ベストナイン5回(1989,1990,1992,1995,1996)沢村賞3回(1989,1995,1996)ゴールデングラブ賞4回(1990,1992,1995,1996)

数々の伝説


 @転機

 プロ入りしたとき、斎藤は、ごく普通のオーバースロー投手であった。入団1年目の1983年、斎藤は、イースタンの試合で何試合か投げていたが、投げる度に打たれる、という状況でもあった。
 5月頃、1軍監督をしていた藤田元司が2軍の練習を見に来た。
 斎藤の投球を見た藤田監督は、即座に「サイドの方がいい」と一言。斎藤は、この言葉でオーバースローからサイドスローへの転向を決める。
 藤田監督は、この年限りで監督を退くが、1989年に監督復帰。斎藤も、1989年に初めて20勝を挙げてタイトルを獲得し、エースの座をものにしたのである。
 

 A11連続完投勝利

 1989年5月10日、斎藤は大洋戦で苦しみながらも何とか持ちこたえ、4失点しながらも完投し、5×4で勝利投手となった。
 その後、斎藤は、好調さを持続させて毎試合毎試合完投勝利を続けた。
 そして、7月15日のヤクルト戦に完投勝利した斎藤は、何と11連続完投勝利という記録を打ちたてた。
 これは、先発・中継・抑えという分業制が確立した球界で行われた、というところに大きな価値を持つ快挙である。
 そんなエースの中のエースである斎藤は、エースの条件を聞かれたとき「与えられたマウンドを最後まで守り抜くこと」と答えている。


 B2年連続20勝

 斎藤は、1989年に11連続完投勝利などで勢いに乗って、終わってみれば20勝7敗、防御率1.62という素晴らしい成績を残してリーグ優勝に貢献した。
 翌年も、その好調さはとどまるところを知らず、20勝5敗、防御率2.17という成績で2年連続の最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得している。
 しかも、この2年間だけで完封勝利が13、完投試合が40というタフネスぶりを発揮している。
 しかし、1990年は2年連続20勝という今後もなかなか出てこないと思われる大記録を達成したにもかかわらず、沢村賞投手に選ばれていない。なぜなら、その年、トルネード投法の野茂英雄がパリーグの近鉄に入団し、18勝で最多勝、最優秀防御率、287奪三振で最多奪三振といったタイトルを総なめにして受賞しているからである。
 その斎藤も、1991年は11勝に終わって3年連続20勝は逃している。


 C伝説の10.8で勝利投手

 1994年、一時独走態勢に入っていた巨人も、打撃陣の不調が響いて10月8日時点でわずか1試合を残して中日と並ばれてしまう。
 そして130試合目に勝った方が優勝というなかで10月8日の巨人×中日戦が行われた。
 試合は、四番落合博満の先制本塁打などで2点リードするが、巨人の槙原も打たれて同点に追い付かれる。巨人は槙原をあきらめて2回に早くも斎藤をマウンドに送り込んだ。
 3回には再び落合のタイムリーでリードを奪い、その後もリードを広げた。斎藤は槙原の後を受けてから6回終了時点まで5回3安打1失点と好投。
 7回から斎藤に代わって桑田がリリーフのマウンドに上がり、そのまま無失点で切り抜けて6×3で勝ち、優勝を決めると共に斎藤は、そのシーズン14勝目をあげた。


 D最多勝5回

 斎藤は、1989・1990年の2年連続20勝で連続最多勝になったのに続き、1992年にも17勝で最多勝を獲得している。
 1995・1996年にも18勝・16勝と再びハイレベルな成績を続け、2年連続最多勝となっている。
 合計5回の最多勝は、スタルヒン・稲尾和久・野茂英雄の4回をしのいで、単独の歴代1位という結果になっている。
 

 E3年連続開幕戦完封勝利

 1994年の広島との開幕戦、巨人は新加入の落合博満と若手の成長株松井秀喜の2人の主砲による本塁打の競演で幕を開けたが、それにも増して存在感を見せつけたのは斎藤だった。
 11点をもらうという大味な試合の中で、5安打に抑える見事な完封勝利。
 1995年の開幕のヤクルト戦も2年連続完封勝利で飾った。
 そして、1996年の阪神戦でも1安打完封という快投で9×0の完勝し、斎藤は、3年連続開幕戦完封勝利を達成した。


 Fオールスターでは不調

 ペナントレースにおいては他をしのぐ好成績を残している斎藤だが、意外にもオールスターではこれといった成績を残していない。
 1989年に初出場したオールスター第1戦では2回を3失点、1990年の第1戦でもブライアントに1発を浴びるなどして1回をもたずに5失点でKOされている。
 1994年の第1戦に先発した際も、佐々木誠に本塁打を打たれるなどして3失点している。




Copyright (C) 2001 Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system