1970年4月、大阪府生まれ。左投左打。内野手、外野手。背番号26→10→26(横浜)→7(中日)。尽誠学園高校では2年時に夏の甲子園に出場するが、3回戦で敗退。大阪商業大学では、3年生の1991年に関西六大学リーグで2季連続三冠王となり、日米大学野球の日本代表にも選出される。
1993年、ドラフト2位で横浜に入団する。1年目は、55試合に出場し、2本塁打に終わるが、2年目には107試合に出場して11本塁打を放つ。
1995年にはオールスターゲームに初出場し、1996年には打率.290、6本塁打、59打点の成績を残す。
1998年にはマシンガン打線の一角として打率.289、9本塁打、55打点の成績で横浜のリーグ優勝に貢献。日本シリーズでも通算打率.364を残し、横浜の日本一に貢献する。
1999年は、打率.309、10本塁打を残して初の打率3割を記録する。
2001年にも、打率.302、14本塁打、73打点を記録し、2度目の打率3割を達成する。
2004年には、打率.322、19本塁打という自己最高の成績を残す。2007年にも打率.302、16本塁打の成績で4度目の打率3割を達成する。
2010年は、出場機会に恵まれず、10試合の出場に終わり、シーズン終了後に戦力外となった。オフに中日へ移籍し、2011年は、64試合に出場して打率.202ながらリーグ優勝を経験するが、戦力外となった。
その後、野球浪人をしながら現役続行を模索したが、12球団合同トライアウト参加後も獲得球団がなく、現役を引退した。
通算成績(実働19年)打率.277、156本塁打、795打点、1597安打。 |