ロバート・ローズ
 1967年3月、アメリカ生まれ。右投右打。内野手。背番号23。サンディマス高校からドラフト5位でアメリカ大リーグのエンゼルス入り。エンゼルスでは不遇のときを過ごし、1993年に横浜へ入団。
 1年目から94打点を記録し、打点王に輝く活躍を見せる。
 1995年5月にはサイクル安打を達成。
 1997年には最高出塁率のタイトルを獲得した。4月には2度目のサイクル安打を達成している。
 1998年には打率.325、19本塁打、96打点でタイトルこそなかったものの、横浜を38年ぶりのリーグ優勝、日本一へと導いた。
 1999年には打率.369、153打点で首位打者と打点王を獲得。153打点は歴代2位の好記録で、シーズン192安打はセリーグ新記録であった。6月には史上初となる3度目のサイクル安打を達成している。
 2000年、ローズは打率.332の好成績を残し、最多安打のタイトルを獲得しながらも年俸面で球団と合意に達せず、引退して帰国した。
 日本在籍8年中7年も打率3割以上を記録している。
 衝撃の引退後、2年間のブランクを経て2003年に突如、ロッテ入り。しかし、ブランクは埋められず、シーズン前に自ら退団した。

 シャープな振りで安打を量産するアベレージヒッターで、大砲が多い外国人の中にあって勝負強いバッティングを見せ、毎年安定した打率、打点を残した。総合的には歴代でも屈指の外国人選手である。

通算成績(実働8年):打率.325、167本塁打、808打点、1275安打。首位打者1回(1999)打点王2回(1993・1999)最多安打2回(1999・2000)最高出塁率1回(1997)ベストナイン6回(1993・1995・1997〜2000)ゴールデングラブ賞1回(1998)

数々の伝説

 @故障のため、日本へ

 1985年にエンゼルス入りしたローズは、大リーグではレギュラーになれず、故障者が出たときに出場する程度の立場だった。
 大リーグでほとんど実績を残せずにいたローズに突如、転機が訪れる。1992年の開幕直後、バスで移動中に運転手が居眠り運転をしてバスが横転するという大事故に巻き込まれたのだ。
 ローズは、足のくるぶしを骨折。長期欠場を余儀なくされる。トレードされる可能性も出てきた。
 そこへ以前から目を付けていた横浜の牛込惟浩スカウトが入団交渉を持ちかける。ローズは、1993年から日本でプレーすることを決意し、来日したのである。


 A期待されず、1年目に打点王

 来日当初、ローズは、ほとんど期待されていなかった。外国人に望まれるのは、日本人選手にないパワーを兼ね備えたスラッガーであり、アベレージヒッターのローズに対する評価は低かった。
 代わりに注目されたのが、現役大リーガーだったパワーヒッターのブラッグスであった。ブラッグスは、期待通りの活躍を見せたもののシーズン半ばで怪我をして戦線を離脱。
 逆にローズは年間を通して安定した打撃を見せ、シーズン終了後には19本塁打ながら打率.325、94打点を叩き出し、打点王のタイトルも獲得したのである。


 B横浜の日本一に貢献

 1998年の横浜は、権藤博監督の指揮の下、投打がかみ合って勝ち続けた。
 1勝1敗45セーブという驚異的な記録を残した佐々木主浩という絶対的守護神を持ち、打ってもローズや鈴木尚典、石井琢朗などの活躍で2位に4ゲーム差を付けてリーグ優勝を果たした。この優勝が横浜にとって1960年以来、38年ぶりのリーグ優勝だった。
 ローズは、打率.325、19本塁打、96打点と安定した活躍で横浜の優勝に大きく貢献した。
 横浜は、リーグ優勝した勢いそのままに日本シリーズでも4勝2敗で西武を破り、38年ぶりの日本一にも輝いている。


 C大活躍の1999年

 1999年は、ローズの打棒が最高潮に達した。打率.369は落合博満の.367(1985年)を抜いて右打者歴代1位となり、シーズン192安打は藤村富美男の191安打(1950年)を抜いてセリーグ1位になった。
 また、シーズン153打点は、小鶴誠の161打点(1950年)に次いで歴代2位の記録となった。7月22日のヤクルト戦では歴代2位となる1試合10打点を挙げてもいる。
 ローズが獲得したタイトルは、首位打者、打点王、最多安打で、打撃の主要タイトルほとんどを獲得したことになる。もし、本塁打王になっていれば三冠王だったわけだが、ペタジーニの44本に7本及ばず、37本塁打で3位に終わっている。
 その他、6月30日の広島戦ではサイクル安打を達成。1995年5月2日の中日戦、1997年4月29日のヤクルト戦に続く3度目のサイクル安打達成で、史上初の快挙だった。
 この年、横浜は残念ながら優勝を逃しているが、もし優勝していたならローズがMVPであったことはほぼ間違いないだろう。


 D8年で3割台7回

 ローズのアベレージヒッターとしての成績は、他の追随を許さないほどのものがある。2年目に打率.296とわずかに3割を下回った以外は、3割以上の成績を残し続けている。8年間で3割台が7回。
 1999年の打率.369を筆頭に3割3分台が1回、3割2分台が3回もある。
 通算成績は、3929打数1275安打で打率.325。これは、4000打数以上と規定されている通算打率部門にはわずかに不足しているが、1位がレロン・リーの打率.320となっており、もしローズがあと1年プレーすれば、歴代最高通算打率を残すことになっていた。
 しかし。ローズは、くしくも9年目をプレーすることなく、日本を去ることになった。


 E引退

 ローズは、2000年、打率.332、21本塁打という好成績を残しながら引退して帰国することを表明。引退の記者会見まで行った。
 しかし、8年間に渡って超一流の成績を残してきたローズを引退させてしまうのは誰もが惜しいと思った。当然のように複数の球団がローズを獲得すべく、交渉にあたった。すると、ローズも、それを待っていたかのように年俸を大きく引き上げての契約を主張。それは、普通のアメリカ的なスタイルであったかもしれないが、日本の各球団は「悪しき前例を作ることになる」とそれぞれが申し合わせてローズから手を引いたと言われている。
 ローズは、自由契約となったものの、獲得に動く球団はなく、そのまま引退して帰国した。



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