タフィ・ローズ
 1968年8月、アメリカ生まれ。外野手。左投左打。背番号20(近鉄→巨人)→8(オリックス)。ウエスタンヒル高校から大リーグのアストロズに入団。その後カブスに移籍し、1994年には大リーグ新記録となる開幕戦3連発を放った。レッドソックスを経て、1996年に日本の近鉄と契約して入団。
 1年目にパリーグタイ記録となるシーズンサヨナラ本塁打3本を放つなど日本野球に適応し、打率.293、27本塁打、97打点の好成績を残し、以後コンスタントに好成績を収める。
 そして、1999年には打率.301、40本塁打、101打点の大活躍で、チームは最下位になったものの本塁打王・打点王の2冠に輝いた。
 2001年には王貞治以来37年ぶりに日本タイ記録となるシーズン55本塁打を記録し、ローズの本塁打量産によって勢いづいた近鉄は12年ぶりのリーグ優勝を果たした。続く日本シリーズでも2本塁打を放ったものの、ヤクルトに1勝4敗で敗れて日本一を逃した。
 2001年のシーズン成績は、打率.327、55本塁打、131打点という抜群の成績で、文句なしのシーズンMVPに選ばれている。同僚の中村と合わせた本塁打数は101本であり、これは同一チーム内のコンビとしては史上最多である。
 2002年も46本塁打、117打点を叩き出し、打点王を獲得しているが、カブレラが55本塁打を放ったため、本塁打王は逃した。
 2003年に51本塁打で3度目の本塁打王を獲得すると、2004年からは巨人に移籍して超重量打線の一角に加わり、45本塁打で4度目の本塁打王となった。
 2005年8月に右肩の故障によって登録抹消となり、手術を受けて巨人を退団する。
 2006年にはシンシナティ・レッズとマイナー契約するが、3月に退団し、現役引退を表明する。
 しかし、2007年、オリックスの入団テストを受けて合格し、オリックスの主砲として、打率.291、42本塁打、96打点の活躍で見事な復活を果たし、2008年も40本塁打、118打点を残し、打点王とベストナインに輝いた。
 
 バットをバックネット方向へ水平に寝かせた独特の構えから繰り出されるシャープなスイングでセンターを中心に広角に打てるホームランバッターである。既にシーズン40本塁打以上を7回記録し、外国人選手の通算本塁打数を更新中である。

 通算成績(実働13年、2009年末現在):(日本13年)打率.286、464本塁打、1269打点。1792安打。本塁打王4回(1999・2001・2003・2004)打点王3回(1999・2002・2008)シーズンMVP(2001)ベストナイン7回(1997・1999・2001〜2004・2008)
(大リーグ 6年):打率.224、13本塁打、44打点、132安打
(日米通算 19年):打率.280、477本塁打、1313打点、1924安打
数々の伝説

 @3連発と不遇の大リーグ時代

 アメリカでのローズは、大リーグでの試合にあまり使ってもらえず、不遇な時を過ごしていた。
 それでも、一時、来日後の活躍を予感させるような輝きを見せている。
 大リーグのカブスに所属していたローズは、1994年4月4日、メッツとの開幕試合でスタメン出場すると、初回に好投手グッデンから先頭打者本塁打を放った。
 第2打席の3回、第3打席の5回にも本塁打を放ったローズは、大リーグ史上初の開幕戦3連発を達成。試合は、8−12でメッツに敗れたものの、ローズの名前は全米に知れ渡った。
 しかし、ローズは、その後、不調に陥り、その年の成績は、打率.234、8本塁打に終わっている。
 結局、大リーグでは6年間で225試合に出場。590打数132安打で打率.224、13本塁打、44打点。1996年に新天地を求めて日本の近鉄と契約を結ぶことになる。


 Aタフから来たタフィの愛称

 タフィ・ローズの「タフィ」は、実を言うと本名ではない。
 6歳の頃、野球を始めたローズは、野球をして遊んでいるときに打球を顔面に受ける。
 しかし、ローズは、何事もなかったかのように涙を流さなかった。
 それを見た母は、ローズに「タフィ」という愛称を付けた。あまりにもタフだという意味だ。
 日本での登録名は、本名の「カール・ローズ」を使用せず、「タフィ・ローズ」としている。
 ローズのタフさは、来日後もはっきり見てとれる。1年目の1996年から130試合にフル出場。2年目も135試合制となったがにフル出場。
 2000年にも135試合すべてに出場し、シーズン本塁打55号を達成した2001年にも140試合フル出場を果たしている。
 ちなみに日本好きになったローズは、サインやバイクにも「狼主(ろうず)」と書いており、そのバイクに乗って球場に向かう途中、警察官に暴走族と間違われて職務質問されたこともあるという。


 Bチームが最下位なのに2冠王

 1999年、来日4年目のローズは、来日以来最高の調子を維持し、シーズン40本塁打、101打点の活躍で本塁打王・打点王の2冠王に輝いた。
 しかし、近鉄は低迷を続け、54勝77敗4分で23もの借金を背負って4年ぶりの最下位に転落した。チームが最下位で2冠王を獲ったのは、ローズと翌年の中村紀洋(近鉄)だけである。
 この年の近鉄の投手陣は、防御率4.54。あまりの投壊ぶりが最下位になった要因であろう。
 それなのに、2001年には防御率4.98ながらローズの55本塁打などで常識破りのリーグ優勝を果たしてしまうのだ。


 Cシーズン55号本塁打

 2001年は、例年にないハイペースの本塁打王争いとなった。
 4月から西武のカブレラがパワーを見せつけて飛距離抜群の本塁打を量産すれば、6月以降はローズが爆発力を発揮して本塁打王争いを繰り広げた。
 そして、9月12日、大阪ドームで行われた近鉄×ロッテ戦の1回裏、ローズは、ロッテの先発吉田からバックスクリーンに叩き込む54号本塁打を放ち、1985年のバース(阪神)と並んで歴代2位となった。
 これが近鉄のシーズン128試合目。バースと同じ記録である。
 9月24日、大阪ドームで行われた近鉄×西武戦で5回裏、ローズは、西武の怪物投手松坂大輔から右翼席中段へ豪快に55号本塁打を運んだ。これは、1964年の王貞治(巨人)と並ぶ歴代1位の記録で、王貞治が140試合目で達成したのに対して、ローズは135試合目で達成。同時にこの試合に勝った近鉄は、優勝へのマジックを1としている。
 残り5試合を残していたため、新記録達成の可能性は大きいと見られていた。
 しかし、ローズはその後、本塁打を打つことはできず、新記録達成はならなかった。
 それでも日本シリーズでは第2戦と第4戦で本塁打を放ち、その年の本塁打総数は57本となった。


 D屈辱の138試合目

 2001年9月30日に福岡ドームで行われたダイエー×近鉄戦は、近鉄の優勝が既に決まっているにも関わらず、満員の48000人の観客が詰め掛けた。ローズの56本塁打達成の瞬間を見たいがためである。
 ダイエーの先発投手は、エース格に成長してきた田之上慶三郎。
 近鉄は、ローズに56号達成のチャンスを増やすためにスタメン1番で起用していた。
 初回・3回に打席が回ってきたローズは、田之上から連続四球で歩かされる。
 ダイエー側の姿勢に憤慨したローズは、第3打席・第4打席では、無理やりボール球を振りにいって凡退し、憮然とした表情を浮かべた。
 この日、田之上がローズに投げた18球のうち、ストライクはわずか2球。ファンからは容赦ないブーイングが浴びせられた。
 ダイエーは、この試合を12−4で勝っている。
 試合後、ダイエーの若菜嘉晴バッテリーコーチは、「ONはプロ野球の象徴で、うちの監督は記録で残る人。それを守ってやらないと。おれたちにできるのは、それしかないんだ。監督は勝負しろというが、監督と同じユニホームを着ているんだ。そこで反発しても、あの人の下で働いているものとして許されるだろう」(サンスポ2001/10/2)と発言し、王貞治監督不在のミーティングで田之上に四球攻撃を指示したことを認めた。
 ダイエーは、勝負のためではなく、監督の王貞治の日本記録を守ろうとして、露骨に勝負を避けたのだ。
 それを知った川島広守コミッショナーは、激怒。「個人記録にかかわり、ファンから不評を買う試合が散見することについて」という声明文を発表した。このような声明文が出されるのは極めて異例のことだという。
 その中で「新記録の達成チャンスを故意に奪うことは、フェアプレーを至上の価値とする野球の本質から外れており、ファンに支持されるとは到底思えない」(毎日新聞2001/10/2)とダイエーのとった四球攻撃を痛烈に批判。
 また、小池唯夫パ・リーグ会長も「プロ野球である以上、お互いが力を出し合って決着させるべきだ。ファンからいえば、真剣勝負をやってもらいたかったと思う。ファンの気持ちを大切にしないといけない」(サンスポ2001/10/2)と発言。
  このニュースは、アメリカでも紹介され、ニューヨーク・タイムズは、日本の偏狭さと島国根性を批判している。
 結果的に1985年に55号を目指すバースに対して巨人が行った四球攻撃事件を再び繰り返すこととなった。記録とは破ることによって、次なる選手達がさらに高みを目指すようになり、競技自体を進化させていくものである。
 「助っ人」と呼ばれる外国人選手に、日本で何十年も前に作られた記録を破らせまい、とするアンフェアな行為は、今後も繰り返されるならば、日本野球の発展に大きく水を差すことは間違いないだろう。


 Eチーム内コンビで101本塁打の日本新記録

 2001年はローズが55本塁打の日本タイ記録を樹立したが、ローズの後ろに控える四番打者の中村紀洋も46本塁打を記録した。
 そのため、2人での合計本塁打数は、101本にのぼった。
 この記録は、1985年の阪神がバース54本・掛布40本で達成した94本塁打を大きく7本も上回って日本新記録となった。
 この年のチーム本塁打数211は、1980年に近鉄が記録した239本に及ばないものの、防御率4.98の投手陣をカバーして余りある強力打線の象徴だった。


 Fセパ両リーグで本塁打王

 1999年に40本塁打でパリーグの本塁打王に輝いたローズは、2001年に日本タイ記録となる55本塁打、2003年には51本塁打で3度の本塁打王に輝いた。
 その後、近鉄との複数年契約が叶わなかったローズは、電撃的に巨人へ移籍する。ローズは、慣れないセリーグながら、移籍1年目から45本塁打を放ち、2年連続本塁打王になるとともに、セパ両リーグでの本塁打王を獲得する。これは、落合博満に次いで史上2人目の快挙だった。


 G入団テストから復活

 右肩の故障により巨人を退団したローズは、2006年、大リーグ復帰を目指してレッズとマイナー契約を結ぶものの、不調に陥って3月には現役引退を表明する。
 しかし、右肩の故障が完全に癒えたローズは、愛着のあった日本野球への復帰を決意し、古巣オリックス・バファローズ(近鉄・オリックスの合併球団)の入団テストを受ける。入団テストに合格したローズは、シーズン当初から4番打者として活躍を見せ、シーズン終盤こそ戦線離脱したものの、山崎武司と壮絶な本塁打王争いを繰り広げ、打率.291、42本塁打、96打点という好成績を残して復活を果たす。
 2008年には、40本塁打、118打点の成績を残し、オリックスを2位に押し上げるとともに、6年ぶりの打点王も獲得した。この年は、ベストナインにも4年ぶりに選出されている。
 





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