尾崎 行雄
 1944年9月、大阪府生まれ。投手。右投右打。背番号19。浪商に進み、1960年夏から3季連続で甲子園に出場。1961年夏の甲子園では全国制覇。「怪童」と騒がれる。そのため、プロから多くの誘いを受け、高校2年で中退して1962年に東映入り。
 1年目から20勝9敗、防御率2.42という新人らしからぬ成績を残して文句なしの新人王を獲得し、東映のリーグ優勝に大きく貢献した。日本シリーズも4勝2敗で制する。また、この年の西鉄戦では8連続奪三振という記録も残している。
 1964年には20勝18敗、防御率2.55、197奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得。
 1965年には27勝12敗、防御率1.88、259奪三振という自己最高の成績を残して最多勝と最多奪三振の2冠を獲得した。
 翌年にも24勝を挙げたが、1967年夏に右肩を故障。その後は、懸命のリハビリを重ねたものの剛速球は戻らず、1973年限りで現役を引退した。

 小柄な体ながらスリークォーターから投げ込む剛速球は、左右に揺れながらうなりを上げ、160キロ近く出ていたと言われている。カーブ、シュートなどもあったが、ほとんどストレートだけでパリーグの強打者を手玉にとった。ただ「怪童」と呼ばれるほどの剛速球をプロで見せたのはわずか5年間だったのが惜しまれるところである。

通算成績(実働12年):107勝83敗、防御率2.70。1010奪三振。新人王(1962)最多勝1回(1965)最多奪三振2回(1964・1965)ベストナイン(1965)

数々の伝説


 @憲政の神様から付けられた名前

 尾崎行雄。雅号は、尾崎咢堂。この名前は、誰もが知っている「憲政の神様」の名前である。この政治家尾崎行雄は、戦前の憲政擁護運動の先頭に立ち、民主政治の確立に生涯を捧げている。民衆の心情と国の行く末を洞察した思想と演説はその後の政治家にも大きな影響を与えた。連続当選が25回にのぼり、衆議院議員の在籍年数が63年に及ぶという伝説も作り上げている。
 投手尾崎行雄の父徳次郎は、この有名な政治家を非常に尊敬していたという。そのため、子供が生まれたら「行雄」という名前を付けることにしていたのだ。
 かくして、尾崎は、生まれたときに「行雄」という名前になった。「憲政の神様」と呼ばれた大政治家と同じ名前をもらった尾崎は、自らも「怪童」と呼ばれる大投手となっていくことになる。


 A怪童

 尾崎の剛速球が世間の注目を集めたのは1960年夏。高校1年生ながら浪商のエースとして甲子園に出場したときである。このときは、柴田勲を中心とする強豪法政二高に0−4で敗退する。そして、翌春の選抜でも準々決勝で法政二高と対戦して0−3と完封され、またしても敗れてしまう。
 しかし、1961年夏は違った。浪商は、7試合連続完封で大阪府大会を制し、尾崎が1試合24奪三振を記録しての完全試合を達成するなど、無類の強さを誇っていた。3度目の対戦は、甲子園の準決勝という絶好の舞台が用意されていた。浪商は、法政二高を延長11回の激闘の末4−2でついに破る。
 決勝でもスクイズで挙げた虎の子の1点を尾崎が守り抜いて桐蔭高を1−0で降し、全国制覇を達成している。
 この夏の甲子園での尾崎の投球は、見ていて打たれる気がしないほどだったという。大会5試合を通じて重ねた奪三振は54にのぼった。小柄でしかも童顔でありながら、目にもとまらぬ剛速球を投げる尾崎には「怪童」という愛称がつけられた。
 「怪童」と呼ばれた選手の中には、1952年にプロ入りした大打者中西太がいる。中西、尾崎以降も、「怪童」と呼ばれる選手は時おり出現しているが、投の尾崎、打の中西を超える怪童はいまだに現れていない。
 

 B高校を中退して17歳でプロ入り

 150キロを軽く超える剛速球を投げ、高校2年生で夏の甲子園全国制覇を果たした尾崎をプロが放っておくはずはなかった。
 甲子園大会終了後、尾崎の元にはプロ関係者が続々と訪れる。札束を重ねたり、高価な電化製品を持ってきたり、という壮絶な尾崎争奪戦が繰り広げられた。
 その中で、尾崎を獲得したのは東映だった。東映は、前年に名将の誉れ高い水原茂を監督に迎え、大幅な戦力補強に着手していた。さらに、張本勲、山本八郎らの浪商出身者を抱えていたことも尾崎獲得にプラスとなったようである。
 尾崎を獲得した効果は、早くも1年目に表れる。尾崎が20勝を挙げ、東映は78勝52敗3分で2位に5ゲーム差を付けてリーグ優勝を果たすのだ。これが東映の初優勝であり、東映はその勢いのまま日本シリーズも制した。東映を日本一に押し上げた尾崎は、プロでも「怪童」の名を欲しいままにし、新人王に選ばれたのである。
 

 Cなめてきた山内一弘から三振

 尾崎がプロ入りした1962年、山内一弘は、大毎の看板打者として活躍していた。通算で2271安打、本塁打王2回、打点王4回、首位打者1回を記録した大打者である。前年の1961年も打率.311、25本塁打、112打点で打点王を獲得していた。
 シーズン前、尾崎についてのコメントを求められた山内は「たいしたことないよ」と発言する。その言葉は、新聞の紙面を大きく飾り、尾崎の目に入ってしまう。
 記事を読んだ尾崎は、怪童のプライドを賭けて、山内に剛速球1本で勝負することを決めたという。

 対戦は、尾崎のデビュー戦にやってきた。4月8日の開幕第2戦である。試合は、5回までに1−3とリードされた東映が9回裏に2点を挙げて3−3とし、延長戦に突入する好試合となった。
 尾崎は、10回表から登板を命じられる。
 尾崎は、自慢の剛速球で葛城隆雄をピッチャーゴロ、榎本喜八を三振に打ち取り、打席に山内を迎える。山内は、ファウルで粘ったものの、2−3からの外角低めの直球を見逃し三振。
 尾崎は、駆け引きなしにすべて直球を投げ込み、15球で三者凡退に抑えた。その裏、東映は山本八郎のセンター前ヒットでサヨナラ勝ち。尾崎は、デビュー戦でいきなり勝ち投手となった。

 そして、この日、対戦した山内は、試合後「球が消えた」という言葉を残して素直に脱帽している。


 D史上最速投手の呼び声

 尾崎の剛速球は、厚い胸板とたくましい右腕から繰り出され、うなり上げながらホップしてキャッチャーミットに収まったという。大きなテイクバックから力任せの全力投球を常にしていた力投型で、球は左右に激しくぶれながら伸びてきたという。
 その剛速球を史上最速であったと評する者は多い。
 当時のビデオから尾崎の球速を推測したところによると、159キロという数字が弾き出されたという。常にそれくらいの球速が出ていたとしたら、好調時に160キロ以上出ていたことはほぼ間違いない。

 
 E太く短い野球人生

 プロ入り6年目の1967年夏、尾崎は、剛速球を生み出す源になっていた右肩を痛めてしまう。それまでに6勝を挙げていたが、肩の痛みをこらえて投げているうちに投げることすらできなくなってしまう。さらに指に度々できる血豆も尾崎の投球バランスを壊していった。
 この年、6勝14敗に終わった尾崎は、翌年、1勝もできずにシーズンを終える。尾崎は1968年から1971年まで4年間に渡って勝利を挙げることができなかったが、1972年に3勝を挙げて復活の兆しを見せる。
 しかし、1973年にはまたも0勝に終わり、現役引退を決める。このとき28歳。22歳にして失った剛速球はあらゆる治療を行っても、2度と戻って来なかったのだった。

 



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