王 貞治
 1940年東京都生まれ。一塁手。左投左打。背番号1。
 早稲田実業2年のとき、春の甲子園で優勝投手となり、1959年に巨人へ入団。一塁手に転向し、初安打を本塁打でマークした。最初の3年間は、平均打率が2割4分台でタイトルとも無縁だったが、1962年に荒川博打撃コーチとともに一本足打法を研究し、習得すると38本塁打で初の本塁打王と打点王を獲得。以降13年間連続本塁打王という快記録を達成する。特に1964年には日本記録となるシーズン55本塁打を放った。この年、4打席連続本塁打も記録しており、119打点で打点王も獲得したが、打率がリーグ2位で三冠王は逃した。
 1965年から9年間連続で巨人のリーグ優勝、及び日本一に大きく貢献し、その間に6回のシーズンMVPに輝いた。
 1972年9月には日本記録となる7試合連続本塁打を達成する。
 1973年に打率.355、51本塁打、114打点で3冠王を獲得すると、1974年にも打率.332、49本塁打、107打点で2年連続三冠王に輝いた。1975年はスランプのため、田淵幸一に本塁打王を譲ったが、1976年、1977年にも本塁打王を獲得。特に1977年には3度目のシーズン50本塁打を達成した。
 本塁打王獲得回数は15度にのぼり、通算本塁打数868本は、ハンク・アーロンの大リーグ記録755本を抜いて世界記録となっている。
 1980年、30本塁打を放ちながらも、自ら引退を宣言して惜しまれながらバットを置く。
 1984年から5年間、巨人の監督を務め、1987年にはリーグ優勝を果たした。
 1994年からはダイエー(現ソフトバンク)の監督として黄金時代を築き上げ、1999年のリーグ優勝でセパ両リーグでのリーグ優勝監督となった。1999年と2003年には日本一にも輝いている。
 2006年、野球世界一を決めるWBCの日本代表監督として優勝を果たし、世界一の栄冠を手にした。

 一本足打法でライトスタンドへ軽々と本塁打を放り込んで従来の世界記録に100本以上上乗せし、「世界のホームラン王」の異名をとった。また、野球や他人に対する真摯な姿は、スポーツ選手の模範と賞賛され、国民栄誉賞も受賞している。

 通算成績(実働22年):打率.301、本塁打868本(世界記録)、打点2170(史上1位)。 本塁打王15回(1962〜1974、1976〜1977、史上1位)、打点王13回(1962、1964〜1967、1971〜1978、史上1位)、首位打者5回(1968〜1970、1973〜1974、史上3位)、MVP9回(1964、1965、1967、1969、1970、1973、1974、1976、1977、史上1位)、三冠王2回(1976、1977、史上2位)。
数々の伝説


@国籍で国体に出場できず

 1957年、王のいる早稲田実業高校が静岡で行われた第12回国体に東京代表として出場することが決定。
 しかし、エースの王が中国籍で「日本国籍を有する者」という規定から外れるため、王は出場できない事態となった。
 王のいない早稲田実業は、1回戦に9対4で敗退し、王は試合中、ずっとダグアウト脇の通路に立っていた、と言われている。


A初ヒットは何と27打席目、しかも本塁打

 1959年、王は、巨人に入団してすぐに監督の水原円裕が打者転向を指示し、打者一本でプロ生活をはじめている。
 そして、開幕から1軍でのスタートとなったが、まだ一本足打法でもなかった王は、豪快にバットを振り回すだけで三振の山を築いた。そのため「三振王、三振王」とスタンドからやじられたという。
 ヒットも開幕から26打席にわたって出ていなかった。
 そして4月26日の対国鉄戦のダブルヘッダー2試合目で0−0から7回にカウント2−1と追いこまれながら、村田投手から先制の2ラン本塁打。これがプロ初安打であり、試合も2−0で勝ち、王の本塁打が決勝点となった。

B一本足打法の誕生

 1962年、巨人の監督川上哲治は、打撃コーチとして荒川博を入団させ、伸び悩む王の指導を任せる。
 王を見た荒川は、一本足打法(フラミンゴ打法)を構想し、どこの宿舎でも練習できるように両足の幅を畳1畳分に設定して練習に明け暮れる。この練習には日本刀を使用した居合いのわら斬りや合気道も行っている。
 最初は、一本足打法を実戦で使わなかったものの、62年7月1日の大洋戦でついに使用。
 荒川は、もし安打が1本も出なかったら一本足打法は1日限りでやめさせることを王に伝えていたそうである。
 王は、その試合で5打数3安打1本塁打の猛打を記録し、以後、一本足打法で822本の本塁打を生み出していくことになる。


Cシーズン55号本塁打

 1964年、王は、驚異のハイペースで本塁打を積み重ねた。
 5月3日の対阪神戦では4打席連続本塁打。
 101試合目の対阪神戦でバッキーからシーズン40号を放っている。
 9月6日の大洋戦では1回表の第1打席で左腕の鈴木隆投手から52号本塁打を放ち、ついに野村克也が打ちたてたシーズン本塁打記録に並んだ。
 そして迎えた第3打席で王は、峰国安投手から右翼席に日本新記録となるシーズン53号本塁打を放った。
 そして最終戦の9月23日の対大洋戦ダブルヘッダー2試合目で、王は、5回裏にシーズン55号となる本塁打を佐々木吉郎から放っている。
 このシーズン最多記録は、140試合制で作られた記録であるため、一概に比較をすることはできない。しかし、未だにこの記録を超える者は出てきていない。


D山田久志を打ち砕く

 1971年、日本シリーズは、巨人と阪急の対戦となった。第3戦を迎えた時点で1勝1敗。第3戦を重視する巨人監督の川上哲治は、どうしても勝ちたかった。
 しかし、第3戦の先発は、その年22勝を挙げている山田久志である。
 試合は、予想通り厳しい投手戦となり、山田が8回まで巨人打線を2安打に抑えていたこともあって、阪急が1対0とリードして9回裏の巨人の攻撃となる。
 巨人は、山田に2死1塁と追い詰められながら長嶋茂雄がセンター前ヒットを放って1、3塁とした。長打でサヨナラ、凡打でゲームセット。そんな緊迫した場面で、4番の王が打席に入った。
 カウント1−1からの3球目、内角低めへ入った山田のストレートに王のバットが火を噴く。完璧に捕えた打球は右翼席に吸い込まれた。逆転サヨナラ3ランである。
 これで勢いづいた巨人は、続く2試合を連勝して4勝1敗で日本シリーズV7を達成する。
 しかし、王は、敬遠攻めに遭ったこともあって、この日本シリーズのMVPには選出されず、意外なことに現役を通じて1度も日本シリーズMVPを獲得していない。


E世紀のホームラン競争

 1974年11月、後楽園球場での日米野球第6戦の試合前、王貞治×ハンク・アーロンのホームラン競争が行われた。
 そのホームラン競争は、1イニングフェアの打球5本ずつ、4イニング合計20本でホームラン数を競うというものだった。
 2回を終わった時点で6対6。しかし、3回に王が1本だったのに対してアーロンが3本打ち、最終結果は10対9でアーロンが勝った。
 しかし、これには裏話がある。実際3回の2打球目と4回の3打球目は確実にホームランだった、と王の投手を務めた峰国安は語っている。実際、右翼線審だった佐藤清次も3回の打球は本塁打のジェッシャーをしていたのだ。
 それでも、主審のペレクーダスは、その2打球ともファウルの判定をしたのである。もし、主審が別の人物だったなら、結果は王の勝利か引き分けだった、と言われている。 
 この時点での通算ホームラン数は、王が634本、アーロンが733本であった。最終的には王が868本(世界記録)、アーロンは755本(大リーグ記録)となっている。つまり世界の通算ホームラン数歴代1位、2位の対決であり、このような対戦は、行われたこと自体、奇跡である。


F世界記録達成で国を動かす

 1977年9月3日、王は、対ヤクルト戦の第2打席でカウント2−2から鈴木康二郎投手から投げた真ん中やや内角よりのシュートを右翼席中段に叩きこんだ。
 8月31日にハンク・アーロンの通算755号に並んでいた王は、この本塁打が世界新記録となる通算756号となった。そして、シーズン本塁打も40号に到達し、シーズン本塁打王もほぼ確実なものにした。
 政府は、この年、王の世界新記録が確実になってきた、とあって新しい賞の創設を急いでいた。そして、夏には閣議で国民栄誉賞が新しく設けられることが決まり、王は、国民栄誉賞第1号となった。
 

G本塁打30本で引退

 1980年、王は、打率.236、本塁打30本、打点84を記録。本塁打30本は、その年の本塁打ランキング4位、打点84も打点ランキング4位であった。
 それにも関わらず、王は「自分のバッティングができなくなった」とその年限りで惜しまれながら引退した。


H紳士へ試練の死球攻め


 1968年9月18日、同率首位で並んでいた巨人と阪神の対戦は巨人金田、阪神バッキーの先発で始まった。
 1−0の巨人リードで迎えた4回表、2死2塁で打席に立った王は、バッキーから初球を頭部付近に投げられる。さらに次の球がまた王の膝めがけて投げられた。
 紳士の王も、さすがに怒り、マウンドに詰め寄った。そこへ走り込んできた巨人の荒川博コーチがマウンド上のバッキーにキックを入れた。バッキーも、パンチで応酬し、荒川コーチの顔面に右ストレートを見舞った。あとは両軍入り乱れての乱闘となった。
 そして、再開後、バッキーの後を受けた権藤正利投手が王の後頭部に死球をぶつけた。倒れた王は、担架で運ばれて退場した。再び乱闘かと思われる場面で長嶋茂雄は、両軍の選手たちを制して穏やかに鎮めた。
 再び開始された試合で打席に立ったのは長嶋だった。長嶋は、代わった若生智男投手から放った怒りの一撃はレフトスタンドに吸い込まれていく3ランとなった。
 この一発により巨人は快勝。阪神を突き放してそのままリーグ優勝へ突き進んだ。


I鋭い洞察力


 江夏豊は、1967年に阪神へ入団し、1年目からエース級の活躍を見せ始めていた。
 どの球団の選手も、江夏の剛速球とカーブを打ち崩すことができない。
 しかし、王は、江夏に抑え込まれることなく、江夏から打つことができた。それは、王がいち早く江夏の癖を見抜いたからだという。
 その癖とは、江夏がカーブを投げるときはグラブに入れた右手の小指がかすかに動く、というものだった。利き腕でもなく、しかもグラブの上からでしか見えないのに、王はわずかな癖さえ見抜いたのである。


J伝説の距離感


 1975年6月17日の大洋戦で王は、打席に立って構えたとき、違和感を覚えた。場所は、川崎球場である。他の選手たちは何も言わないが、王は、何打席入ってもその違和感をどうしても拭い去ることができない。
 試合後、王は、思い切って審判団に頼んだ。
「バッタボックスからマウンドのプレートまでの距離を測ってほしい」と。
 審判団も大打者の王が言うだけに無視できず、実際に測ってみると、何とバッターボックスがバックネット側に25センチ延びていたのである。投手との距離がいつもと違うと感じるはずだ。
 この原因は、グラウンドキーパーが誤ってバッターボックスの線をバックネット寄りに引いてしまったことにあった。しかし、このことに気づいたのは王ただ一人だったのである。
  

K日本代表監督として第1回WBCで世界一

 2006年2月から3月にかけて真の野球世界一を決める第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が開催となった。
 これまでアマチュア世界一を決める大会はあっても、プロを含めた真の世界一を決める大会は存在しなかった。そのため、第1回WBCは、世界中の注目を集めることになった。
 イチローや松坂大輔といった超一流選手が集う日本代表の監督と言えば、世界の王しかいなかった。王JAPANと呼ばれた日本代表は、1次リーグを突破した後、2次リーグではアメリカ戦での審判の誤審もあって1勝2敗と苦戦するが、失点率の差でアメリカを下して準決勝に進む。
 準決勝の韓国戦では王の采配が当たり、代打福留孝介が決勝ホームランを放って6−0で圧勝し、決勝に駒を進めた。
 そして、決勝は、これまで世界大会で何度も煮え湯を飲まされ続けてきたキューバ戦となった。日本は、先制、中押し、駄目押しという攻撃と松坂から大塚まで投手4人をつぎ込むリレーでキューバを10−6で破った。胴上げで3度宙に舞った王は、このとき、世界一の監督となったのである。




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