大友 工
 1925年2月19日、兵庫生まれ。右投右打。投手。背番号39→20(巨人)→14(近鉄)。大阪逓信講習所で甲子園に出場し、卒業後は地元の但馬貨物で軟式野球の投手をしていたが、全国車両野球大会でスカウトされて1949年、巨人に入団する。
 巨人ではプロ2年目の1950年に4勝を挙げると、3年目には11勝4敗、防御率2.42を残して台頭する。
 1952年7月には松竹戦でノーヒットノーランを記録し、17勝8敗、防御率2.26を記録して巨人のエースとなる。
 1953年には27勝6敗、防御率1.86、勝率.818という驚異的な成績で最多勝、最高勝率、最優秀防御率の投手三冠に輝くとともにシーズンMVP、沢村賞、ベストナインを受賞した。さらに日本シリーズでも最優秀投手賞に輝いている。
 1954年にも21勝15敗、防御率1.68と抜群の安定感を誇り、1955年には30勝6敗、防御率1.75、勝率.833というすさまじい成績で最多勝と最高勝率に輝いている。
 1956年には12勝を挙げたものの、この年の4月に受けた死球の影響によって、翌年は5勝にとどまる。
 1959年オフに10年選手制度によって近鉄に移籍したものの、1勝を挙げるにとどまり、現役を引退した。

 サイドスローから浮き上がるような速球で打者の内角を攻め込む一方、外角へは絶妙のコントロールで高速スライダーを決めてる投球を見せ、巨人のエースとして戦後のプロ野球人気の活性化に大きく貢献した。

通算成績:130勝57敗、防御率2.11。948奪三振。最多勝2回(1953、1955)最優秀防御率1回(1953)最多勝率2回(1953、1955)シーズンMVP1回(1953)沢村賞1回(1953)ベストナイン1回(1953)

数々の伝説


 @軟式野球からプロへ

 大友は、大阪逓信講習所を卒業して神戸中央電信局に勤務した後、地元の但馬貨物に勤務しながら軟式野球の投手として活躍する。そして、1948年秋の兵庫県大会で優勝して、全国車両野球大会に進出する。その大会には、巨人のスカウトが訪れており、大友のサイドスローからの速球やスライダー、シュートの切れ味に目を奪われた。
 その後、先輩の推薦もあって1949年に巨人に入団すると、2年目に4勝を挙げる活躍を見せ、3年目には11勝4敗、防御率2.42を残して巨人の中心投手となっていく。


 Aノーヒットノーラン達成

 1952年7月26日、大阪球場で行われた松竹ロビンス戦で先発した大友は、17得点という打線の強力な援護もあって、快調な投球で飛ばし、松竹打線から奪三振の山を築いていく。
 そして、9回で13奪三振を記録し、17-0の完封勝利を挙げる。大友は、松竹打線に1安打も許さず、1四死球のみの無安打無失点に抑えて、史上19人目のノーヒットノーランを達成した。


 B投手三冠王でシーズンMVP

 巨人のエースに登り詰めた大友は、1953年には投手陣の大黒柱として43試合に登板して281回1/3を投げて27勝6敗、防御率1.86、勝率.818の成績を残す。大友は、最多勝、最優秀防御率、最高勝率の投手三冠王となり、巨人リーグ優勝の原動力となってシーズンMVPに選出される。また、先発として22完投を記録しており、この年の沢村賞にも選出された。
 この年、南海との日本シリーズでは第1戦に先発して5回1/3を3失点で勝敗はつかなかったものの、第4戦では9回を5安打無失点に抑え、3−0の完封勝利を挙げる。
 さらに、第7戦では、1−2の6回途中から別所毅彦をリリーフして7回裏の逆転を呼び込み、3回2/3を無失点に抑えて4−2での勝利に貢献する。
 この試合で4勝2敗1分となって日本一を決めた巨人は、日本シリーズ三連覇を達成する。大友は、胴上げ投手となり、2勝0敗の成績でシリーズ最優秀投手にも輝いた。


 C高速スライダー

 大友が巨人のエースに登り詰めたのは、サイドスローから繰り出す高速スライダーのキレ味が抜群だったからである。右手の中指が非常に長かったため、右打者の外角を狙った球が自然にスライド回転しやすく、高速スライダーとなったのである。この球は、一旦ホップしてから曲がるという独特の軌道を描き、外角ギリギリに決めることもできたし、外角のストライクゾーンをかすめてボールにすることもできたため、打者は、見極めることが困難だった。
 当時、キャッチャーを務めていた広田順は、大友の高速スライダーを受け損ねて骨折している。
 さらに、大友は、内角に浮き上がるような速球も持っていたため、打者は、外角に的を絞ることもできず、打ち崩せなかったのである。


 D大リーグのニューヨーク・ジャイアンツに完投勝利

 1953年秋に大リーグのニューヨーク・ジャイアンツが来日する。レオ・ドローチャー監督に率いられたジャイアンツに日本のプロ野球は歯が立たず、負けが込んでいく。
 しかし、その第10戦に巨人のエースとして先発した大友は、大リーガーに付け入る隙を与えず、真っ向から高めへの快速球と外角へのスライダーで大リーガーを手玉に取る。好投を続けた大友に、平井三郎が本塁打で援護した。そして、ウィルヘルムとの投げ合いを制した大友は、2−1で完投勝利を飾った。これは、日本の単独チームとしては史上初の大リーグチームからの勝利だった。


 E30勝投手

 大友は、1955年、シーズンを通して好調を持続させ、42試合に登板して25完投を記録する。そして、シーズン成績は、30勝6敗、206奪三振、防御率1.75、勝率.833という驚異的なものとなった。この年の巨人は、川上哲治や与那嶺要を中心に打線も活発であり、別所毅彦も23勝を挙げたため、92勝37敗1分で2位に15ゲーム差をつけるという圧倒的な独走優勝を飾る。
 大友は、この年、通算2度目となる最多勝と最高勝率の二冠を達成している。2リーグ分裂後にシーズン30勝以上を挙げながら敗戦数が1桁だったのは、大友が唯一の存在である。


 F死球の影響で引退

 巨人のエースとして順調だった1956年4月22日、ここまで好調に投げていた大友だったが、阪神戦で打者として大崎三男投手の投球を右手親指に受けてしまい、全治二か月の骨折をしてしまう。シーズンの大半を棒に振った大友は、翌1957年には、故障の影響により、防御率が1点台から3点代後半に大きく悪化し、シーズン5勝に終わる。
 1960年には近鉄に移籍して再起を図ったものの、わずか1勝に終わり、現役を引退した。





(2014年3月作成)

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