大野 豊
 1955年8月島根県生まれ。左投左打。投手。背番号60→57→24。出雲商高、出雲市信用組合を経て、1977年にテスト生からドラフト外で広島に入団。出雲市信用組合では軟式野球のエースだったという異色の経歴を持つ。
 1年目の1977年は、阪神戦で3分の1回投げて自責点5で防御率135。
 2年目から頭角を現し、江夏の後継者のリリーフとして順調に成績を伸ばしていった。
 3年目の1979年には最多の58試合に登板し、リーグ優勝・日本一に大きく貢献した。翌年も49試合に登板して7勝を挙げ、連続日本一に貢献。江夏が日本ハムへ移籍していった5年目の1981年には8勝11セーブを記録し、リリーフエースの地位を確立した。
 1984年から先発に転向し10勝5敗2セの好成績を残し、リーグ優勝・日本一に貢献。1986年のリーグ優勝をはじめとして、1990年までに4度の2桁勝利をマークし、エースとして活躍。1988年には13勝7敗、防御率1.70という好成績で最優秀防御率のタイトルを獲得した。
 しかし1991年に再び抑え役に転向。2年連続26セーブを記録し、2年連続セーブ王に輝いた。1991年には32セーブポイントで最優秀救援投手となり、14試合連続セーブという当時の日本記録も樹立し、チームもリーグ優勝を果たしている。
 95年からまたも先発に転向し、1997年には防御率2.85で2度目の最優秀防御率のタイトルを獲得。
 しかし1996年の左上腕部動脈血栓症手術の頃から持病となっていた血行傷害のため、1998年43歳で現役引退。一年間広島のコーチを務めた後、野球解説者となる。
 背中を曲げながら体を極端に低く沈めてから上半身をむちのようにしならせて投げ込む140キロ台後半の直球と七色の変化球のコンビネーションで先発とリリーフの両方で超一流の成績を残した投手である。特に直球は40歳を超えても全く衰えることがなかった
 通算成績:実働22年。148勝100敗138セーブ192セーブポイント。防御率2.90。最優秀防御率2度(1988・1997)、最優秀救援投手1度(1991)、セーブ王2度(1991・1992)沢村賞1度(1988)。

数々の伝説

 @軟式野球のエースから江夏の後継者へ

 大野は、出雲商高時代に外野手から投手に転向。社会人の出雲市信用組合では軟式野球のエースとして活躍していたが、1977年に広島のテストを受け、ドラフト外ながら広島カープに入団。
 当初は、その経歴が注目を集めたが、1年目の背番号はチームの選手の中で最も大きい60。大きく期待されていたわけではなかった。だが、大野は、次第に切れのいい直球と多彩な変化球で頭角を現す。
 そして、1978年に運命とも言える大投手江夏豊が広島に移籍してくる。
 江夏は、大野の素質を見抜き、名前が同じという理由もあって大野に対して熱心に指導をした。
 そのかいあって、1978年には41試合登板、1979年にはリーグ最多の58試合登板を果たすなど、リリーフとして大きく成長した。


 A初登板は屈辱

 1977年、大野は、一軍初登板の阪神戦の中継ぎマウンドに上がったが、3分の1回、打者8人に5安打2本塁打5失点というメッタ打ちをくらいKO。
 その年は、この1度だけの登板に終わり、防御率は135.00という天文学的な数字が残った。
 しかし、この屈辱をバネにして翌年は41試合に登板して防御率3.77と安定した成績を残し、1988年には先発のエースとして防御率1.70、1991年にはリリーフエースとして何と1.17という驚異的な数字を残している。
 当の本人も、常に壁に当たったときは、1年目より防御率が落ち込むことはない、と自らを奮い立たせたという。


 Bヤクルトのシーズン全試合得点の夢を破る快挙

 1978年、広岡達朗監督が率いるヤクルトは、無類の強さを発揮していた。シーズン開始以降ずっと完封負けしなかったのだ。それは10月まで続き、リーグ優勝も決めた。10月8日時点では、前年からの試合も含めると通算143試合連続得点という日本記録になっていた。
 それまでシーズン全試合連続得点を記録した球団はなかった。どの球団も年に最低1回は完封負けをしていたわけである。
 大野が先発したのは史上初の記録がかかったヤクルトの最終130試合目だった。大野は、1回から飛ばした。ヤクルト打線に付け入る隙を与えず、終わってみれば9回を2安打完封していた。プロ2年目の大野にとってこの勝利は、プロ初の完封勝利だった。
 一方、ヤクルトは、史上初の快挙目前の最終戦で痛いゼロ敗を喫したのである。


 C大リーグからの誘いを断る

 1993年9月、大リーグのエンゼルスから広島カープへ大野を獲得したいという話があった。エンゼルスは、大野の成績に目を着け、ビデオを取り寄せて確かめ、トレードでの獲得を狙ってきたのだ。
 大野は、広島の守護神として1991年には防御率1.17、1992年にも防御率1.98という卓越した成績を残していた。
 エンゼルスは、大野に年俸100万ドルを提示したという。しかし、大野は、元々アメリカ大リーグで投げることなど考えたことがなかった。それに年齢も38歳を迎えていたため、乗り気でなかった。大野は、エンゼルスからのトレード話を断り、広島で現役を終えることを決意したのである。


 D投手史上最年長でタイトルを獲得

 大野は、1997年、左腕の故障から見事に復活し、42歳という年齢ながら先発のエースとして好投を続けた。
 そして、シーズンが終わったときには9勝6敗、防御率2.85という好成績を残していた。
 そして、見事に投手史上最年長で最優秀防御率のタイトルを獲得することになった。
 また、大野はこの年、最年長完封勝利という記録も達成している。


 E七色の変化球

 大野はMAX147キロという直球を持ちながら、変化球のマスターとそれに磨きをかけることを怠らなかった。
 「七色の変化球」というのが大野の代名詞として使われることがあるのもそのためである。
 入団時はストレート、カーブ、シュートの三種類だったが、三年目にフォーク、江夏からスラーブを習い、自分の持ち球に加えた。5年目には当時巨人に在籍した好投手・新浦からチェンジアップを習う。1984年にはパームボール、それからマッスラを覚える。
 しかし、大野はこのすべてを実戦で投げていたわけでもなかった。肘への負担軽減を考えて、フォークとパームを封印していた。そのため、実際はストレート、カーブ、シュート、スラーブ、チェンジアップ、マッスラの6種類を卓越した投球術で使い分けていたわけである。
 そうした大野の投球を評価していた打者は多く、特に落合博満が巨人から日本ハムに移籍したとき、一番対戦したい投手を聞かれて、リーグが別れるにもかかわらず大野の名前を出したことは有名である。


 F引退試合で146キロ

 大野は、1998年8月4日の巨人戦で2点のリードの状態で佐々岡の後を受けてマウンドに上がりながら、高橋由伸に自信のあるスライダーを痛烈な逆転3ランされて、引退を決意した。
 持病の左上腕部動脈血栓症からくる血行傷害の悪化も引退を決める一因となった。
 そのため、1998年は史上最年長の開幕投手と務めながら、わずか3勝2敗という成績しか残せなかった。
 それでも、9月27日の地元での横浜戦となった引退試合では2点リードの8回に登板。中継ぎで一人だけの対戦ながら、MAX146キロを記録。打者の中根を143キロの内角低め速球で空振三振にきってとって有終の美を飾った。





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