大村 直之
 1976年2月、兵庫県生まれ。外野手。左投左打。背番号60(近鉄)→7(近鉄・ソフトバンク)→6(オリックス)。育英高校では、1993年夏の甲子園で全国優勝を果たす。1994年、ドラフト3位で近鉄に入団する。
 プロ1年目は、6試合の出場に終わるが、2年目の1995年にはレギュラーを獲得し、打率.270、3本塁打、15盗塁の成績を残す。
 1996年は不振に陥ったものの、1997年には打率.281を残してレギュラーを奪還する。
 1998年に打率.310、23盗塁を残して、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出される。
 2001年には打撃改造により本塁打が大幅に増え、打率.271、16本塁打、53打点の成績で近鉄のリーグ優勝に貢献する。
 2003年には打率.300、16本塁打、61打点、27盗塁の活躍を見せ、ゴールデングラブ賞を獲得する。
 2004年にも打率.303、22盗塁の成績を残したが、近鉄球団の消滅に伴い、FA宣言を行使してソフトバンクに移籍する。ソフトバンクでは、1年目から打率.270、8本塁打、31盗塁の活躍を見せて3度目のゴールデングラブ賞を獲得する。チームは、リーグ1位の成績だったが、プレーオフで敗れて日本シリーズ進出を逃す。
 2006年には打率.294、6本塁打、60打点、22盗塁を残し、シーズン165安打でリーグ最多安打のタイトルを獲得する。
 2007年には自己最高の打率.319を残し、2度目のベストナインにも選出される。
 2008年には規定打席未満ながら打率.302を残したが、オフにトレードによってオリックスへ移籍。2009年にも打率.291を残す。
 しかし、2010年には若手への世代交代というチーム方針により、一転して2試合の出場に終わり、その年限りでオリックスを退団した。

 センターを中心に巧みなバットコントロールで広角に打ち返すバッティングながら、引っ張って本塁打を放てるパンチ力もあった。毎年、安定して安打を量産し、俊足を生かした内野安打も多かった。走塁においても俊足を生かした盗塁が多く、さらに外野の守備範囲も広い走攻守3拍子揃ったプレーヤーである。

通算成績(17年):打率.284、78本塁打、568打点、203盗塁、1865安打。最多安打1回(2006)ベストナイン2回(1998・2007)ゴールデングラブ賞3回(1998・2003・2005)


数々の伝説


 @夏の甲子園で全国制覇

 大村は、強豪校の育英高校で頭角を現し、1992年春には1番打者として甲子園に出場してベスト8に進出する。大村自身も、通算14打数7安打、打率.500という目覚ましい活躍をしている。
 そして、1993年夏の甲子園では、機動力野球を前面に押し出した育英の3番打者としてチームをけん引する。準々決勝の修徳戦では高橋尚成からタイムリーを放つなど3打数1安打2打点の活躍で8−1で破る。準決勝の市立船橋戦では大村が3打数2安打4打点の活躍をして6−1で快勝し、決勝の春日部共栄戦でも3打数1安打を記録して3−2で接戦を制し、全国制覇を果たす。
 この夏の甲子園で大村は、通算22打数8安打、打率.364、9打点という成績を残し、その活躍が注目されてドラフト3位で近鉄に入団する。


 A2年目にレギュラー

 大村は、高卒のドラフト3位で背番号60であったことからも分かるように、即戦力として期待されて入団したわけではなかった。そのため、プロ1年目は主に2軍での出場となったが、ウエスタンリーグでは打率.296、31盗塁で盗塁王に輝くなど、高い素質を見せる。1軍では守備固めとして6試合に出場したが、打席に立つことはなかった。
 しかし、プロ2年目の1995年、大村は、1軍で4月18日に9番打者として初先発を果たすと、その後は1軍に定着して、主に1番打者として110試合に出場し、打率.270、15盗塁の活躍を見せて、高卒2年目にして早くもレギュラーを獲得する。


 B近鉄のリーグ優勝に貢献

 2001年の近鉄は、大村が1番打者を務めて安打を量産し、タフィ・ローズや中村紀洋が本塁打で返すという、いてまえ打線が機能し、圧倒的な打撃力で快進撃を続ける。
 大村自身も、打撃改造により、この年は本塁打数が前年の3本から16本に激増していた。そのうえ、安打製造機として打率.271、160安打を放ち、82得点を記録する。
 この年の近鉄は、チーム防御率が4.98と最下位ながら打線が打率.280、211本塁打というすさまじい破壊力によって、リーグ優勝を成し遂げる。
 ヤクルトとの日本シリーズでは、大村が第2戦に2安打、第5戦で3安打を放つなど、活躍を見せたが、1勝4敗で敗れた。


 C近鉄消滅でFA移籍

 2004年は、プロ野球界が球団再編問題で大きく揺れ、近鉄球団は、球団合併や新規参入球団の狭間に立たされる。
 そんな中、大村も、近鉄がオリックスとの球団合併により、球界が縮小されてしまうことを懸念して熱心な署名活動を行いながら、選手としても打率.303、22盗塁という好成績を残して気を吐いた。
 しかし、近鉄は、オリックスと球団合併が決まって事実上の消滅となり、大村は、愛着のある近鉄がなくなったことで、FA宣言を行う。
 そして、ソフトバンクと3年契約を結び、移籍することになった。


 Dソフトバンクで最多安打

 ソフトバンクでは、1年目の2005年に打率.270、8本塁打の打撃成績を残す。さらに、自己最高の31盗塁を決めてゴールデングラブ賞も獲得するなど、走攻守にわたって目覚ましい活躍を見せた。ソフトバンクも、ペナントレースでパリーグ1位となった。
 そして、2006年、大村は、全136試合に出場し、安打製造機として打率.294、165安打を放って、最多安打のタイトルを獲得する。これが大村にとっては、現役を通じて初にして唯一の打撃タイトルとなった。


 E不遇の退団

 ソフトバンクでは2008年こそ、開幕から足の故障で出遅れて規定打席に達しなかったものの、打率.302を記録する活躍を見せる。
 しかし、その年のオフ、ソフトバンクは、大村とオリックスの村松有人とのトレードを発表する。ソフトバンクにとっては、大村より4歳上の村松を獲得するメリットはないように思われたが、ソフトバンクは、大村を放出する。
 そして、オリックスでも1年目こそ、レギュラーとして起用され、打率.291を記録したものの、2年目の2010年には監督が岡田彰布に代わり、若手起用の方針を打ち出したため、出場機会が著しく減少し、わずか2試合の出場に終わる。
 そして、大村は、その年のオフに戦力外となり、退団する。大村は、出場機会を求めて現役続行を表明していたが、その後、獲得に動く球団が現れなかった。


 F2000本安打まで135安打

 大村は、高卒2年目で既にレギュラーとして活躍したことからも分かるように、天才的なバットコントロールによる打撃技術によって、安打を放つ技術が突出していた。そして、33歳にして1800安打以上を記録し、世間では、このままいけば3000本安打さえ狙えるとさえ評されていた。
 しかし、大村は、職人肌の天才的なバッティングをする反面、一匹狼として度々、球団や首脳陣との確執が話題になった。球団内の不条理に真っ向から意見し、自らの信念を決して曲げなかったためである。さらに、愛着のあった近鉄球団が2004年になくなってしまい、ソフトバンク、オリックスと渡り歩かなければならなかったことで、大村にとっては不運だった。
 結局、大村は、34歳のシーズンにオリックスの世代交代という名目の前に起用が減り、あと1年レギュラーをやっていれば達成できた通算2000本安打まで、あとわずか135安打という通算1865安打で止まってしまったのである。




(2012年12月作成)

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