数々の伝説
@新人王
1982年、プロ2年目の大石は、レギュラーを獲得し、打率.274、12本塁打、41打点という好成績を残す。シーズン23犠打は、パリーグの最多犠打でもあった。そして、その打撃以上に素晴らしかったのが盗塁で、47個を決めた。阪急の福本豊が54盗塁で13年連続盗塁王に輝いたため、タイトルこそ逃したが、福本にあと一歩というところまで迫ったことを考えると、胸を張れる成績だった。さらに俊敏な守備も認められ、ゴールデングラブ賞を獲得する。
しかも、大石は、プロ2年目ながら新人王の資格を持っていた。1年目は、出場試合数こそ77にのぼったものの、打数は19しかなかったからだ。走攻守すべてにわたって一流の成績を残した大石は、新人王に選出された。
A福本の連続盗塁王記録を13年で止める
大石が盗塁王を獲得するためにはどうしても超えなければならない壁があった。世界の盗塁王と呼ばれた福本豊である。福本は、1970年から13年連続で盗塁王に輝き、1972年には史上最高の106盗塁を記録した大選手である。
1982年に47盗塁を残した大石も、54盗塁の福本には一歩及ばなかった。だが、大石は、1983年、さらに盗塁記録を伸ばす。前年より13個上乗せしてシーズン60盗塁を記録したのだ。
一方、福本は、55盗塁に終わり、14年連続盗塁王を逃した。福本を破った大石は、初の盗塁王を獲得し、近鉄の核弾頭としての地位を築いて行く。その翌年、福本が36盗塁に終わったのに対し、大石は46盗塁で2年連続盗塁王を獲得し、世代交代を印象付けたのである。
B身長166センチの大選手
大石は、身長が166センチしかない。これは、一般の成人男性の平均よりも低い。当然、当時の選手達の平均よりずっと低かった。しかし、大石は、そんなハンディを克服し、17年間にわたって第一線でプレーし続ける。近鉄の顔としてチームで日本人初の1億円プレーヤーにもなった。
盗塁王4度、通算415盗塁だけでなく、通算1824安打や通算148本塁打から見ても分かるようにヒットも本塁打も打てる大打者だった。さらに守備では二塁手としてゴールデングラブ賞3度の名手でもあった。
そんな大石の活躍は、体格に恵まれないアマチュア野球選手にも勇気と希望を与えた。現在のような180センチ台が当たり前になったプロ野球界でも、大石のような小さな大選手が生まれる可能性は大石が実証してくれている。
C江川卓のオールスター連続奪三振を8で止める
大石の名前を最も全国にとどろかせたのは、1984年のオールスターゲーム第3戦だろう。
全セの2番手投手としてマウンドに上がった江川卓は、4回に福本豊、簑田浩二、ブーマーを3連続三振に切ってとると、5回には栗橋茂、落合博満、石毛宏典というパリーグを代表する選手から連続で三振を奪っていく。
6回にも伊東勤、クルーズから三振を奪った江川は、8連続奪三振として、江夏豊が持つ9連続奪三振の日本記録に王手をかけた。
ここで打席が回ってきたのが大石だった。
江川を打てる気がしなかった大石は、打席に向かう前、冗談交じりに監督へこう尋ねている。
「誰か、代打はいないんですか?」
江川は、大石に145キロ、146キロの直球で簡単に2ストライクをとった。初速と終速の差が小さい江川の剛速球は、多くの打者が「速すぎて見えない」と言ったように、絶好調時は誰にも打てなかった。
大石を追い込んだ江川は、ここで1球外角にカーブを投げる。これは、1球外すためのカーブだった。だが、微妙にコントロールが乱れ、球はストライクゾーンに入ってしまった。
大石は、その球を逃さず、腕を伸ばしてバットに当てた。ボテボテのセカンドゴロだったが、この瞬間、江川の9連続奪三振は消えたのである。
D伝説の10.19でナインを鼓舞
1988年、近鉄は、首位争いに加わり、10月19日のロッテ戦ダブルヘッダーで連勝すればリーグ優勝というところまでこぎつけた。1試合目に勝った近鉄は、2試合目も終盤リードを奪う展開になる。
しかし、8回裏、満を持して投入したエース阿波野秀幸が高沢秀昭にまさかの同点本塁打を浴びた。試合は延長戦に入る。
10回表、近鉄の攻撃は0点に終わる。このとき、試合開始から既に3時間57分。当時、4時間を超えたら次のイニングに進まない、という規定があった。
時間は、もはや3分しか残っていなかった。3分で1イニングを抑えて次の回に進むことはもはや不可能に近かった。
すべてをあきらめた選手達は、守備につく気力もなくして、重い足取りでそれぞれの守備位置に向かおうとした。
そのときである。大石がナインに声をかけた。
「早く守備につきましょうよ。頑張れば3分で終わるかもしれないじゃないですか」
大石のかけ声に、ナインは、再び奮起した。しかし、3分で1イニングを終わらすことはやはり不可能だった。
試合は結局延長10回4−4の引分けに終わる。大石は、5打数2安打と活躍したが、優勝には結びつかなかった。
だが、最後まであきらめない大石の執念は、翌年、身を結ぶことになる。
E西武をリーグ4連覇で止める
大石の現役時代は、西武の黄金時代でもあった。西武は1982年、1983年と連覇した後、1年置いて1985年からまた連覇を続ける。
優勝するためには、西武を超える必要があった。
チャンスは、仰木彬監督が就任した1988年にまず巡ってきたが、伝説の10.19で惜しくもリーグ優勝を逃し、ペナントは西武の手に渡った。
それでも翌年、またしても近鉄に優勝のチャンスが訪れる。今度は10月12日の西武とのダブルヘッダーで連勝すれば、優勝がほぼ確実になる、という状況になったのだ。大石は、その2試合で8打数4安打という活躍を見せ、ブライアントの2試合にまたがる4打数連続本塁打もあって西武に連勝する。そして、10月14日にリーグ優勝を決めた近鉄は、西武のパリーグ連覇を4で止めたのである。
西武が翌1990年からパリーグ5連覇を達成したことから考えると、1989年の近鉄優勝の価値は言うに及ばないだろう。
|