小野 正一
 1933年9月、福島県生まれ。磐城高校では野手だったが、社会人野球の常磐炭鉱で投手に転向して、清峰伸銅へ移り、プロから注目を集める。1956年に毎日へ入団する。
 1年目から37試合に登板して4勝を挙げると、2年目の1957年には26勝9敗、防御率1.73でリーグ最多完封を記録し、一躍エースに成長する。
 3年目は13勝だったものの1959年には22勝9敗の成績を残す。
 1960年には先発にリリーフにフル回転し、リーグ最多の67試合に登板して33勝11敗、防御率1.98という驚異的な成績で最多勝と最優秀防御率、最高勝率、最多完封、ベストナインなど、ほとんどのタイトルを獲得する。
 しかし、この年の酷使がたたって1961年には17勝、1962年には9勝と勝ち星を落とす。1963年には13勝17敗と2年ぶりの2桁勝利を挙げたものの、その翌年には5勝で、1965年に大洋へ移籍する。
 大洋では移籍1年目に9勝を挙げたものの、1967年には2勝に終わり、中日へ移籍する。
 中日では1969年に13勝12敗、防御率2.64とまずまずの成績を残し、1970年も7勝を挙げたが、その年限りで現役を引退した。

 左腕の好投手で、長身から足を高く上げて投げ降ろす快速球とカーブを武器に若い頃は三振の山を築いた。大毎をリーグ優勝に導き、その反動で快速球は影を潜めたが、200勝まであと16勝まで勝ち星を伸ばした。

通算成績(実動15年)184勝155敗、防御率2.80、2244奪三振。最多勝1回(1960)最優秀防御率1回(1960)最高勝率1回(1960)最多完封2回(1957・1960)ベストナイン1回(1960)

数々の伝説


 @一瞬のパリーグ記録

 1957年、小野は、5月30日から絶好調を維持し、6月、7月と不敗で投げ続ける。そして、8月4日にはパリーグ記録となる13連勝を記録する。
 しかし、8月7日の西鉄戦で9回裏にサヨナラ本塁打を浴びて14連勝を逃す。その試合で投げ合った稲尾は、連勝し続けて9月3日の大毎戦で14連勝を達成し、小野の記録を破った。小野が作ったパリーグ記録は、わずか1ヶ月間で破られたのである。
 稲尾は、その後、20連勝まで伸ばして松田清に並ぶプロ野球記録を樹立している。


 A大毎リーグ優勝の立役者

 1960年の大毎は、榎本喜八、田宮謙次郎、山内和弘らの強力なミサイル打線と小野、中西勝己、若生智男といった強力投手陣によって82勝48敗の成績で2位に4ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす。
 小野は、先発22試合、リリーフ45試合と、リーグ最多の67試合に登板して33勝11敗、防御率1.98という驚異的な成績でリーグ優勝の原動力となる。また、奪三振以外のタイトルを総なめにした他、33勝は左腕投手として史上最多勝利、リリーフで21勝も史上最多勝利だった。
 小野は、これだけの活躍をしたにもかかわらず、シーズンMVPは、本塁打王、打点王の2冠に輝いていたチームメイトの山内和弘が受賞している。


 Bプロ野球記録のチーム18連勝

 1960年、大毎は、6月5日の対近鉄戦から6月29日の近鉄戦まで破竹の勢いで勝ち続け、1954年の南海に並ぶ18連勝というプロ野球記録を達成する。
 その立役者が18試合中15試合に登板した小野だった。先発に、抑えに奮闘した小野は、18連勝中10勝を挙げることになる。18連勝目の近鉄戦では先発した小野が2−0で3安打完封勝利を挙げている。この期間中、東映3連戦では3試合に登板して3勝を挙げ、6月の防御率は、0.47と圧倒的な安定感を誇った。
 小野は、この6月は連勝中の10勝に加えてもう1勝しており、月間最多勝利数11のプロ野球新記録を樹立している。


 Cまさかの日本シリーズ

 大毎と大洋が対戦した1960年の日本シリーズは、圧倒的に大毎が有利という下馬評で始まった。
 しかし、大毎は、初戦を0−1で敗れると、第2戦では勝ちパターンに持ち込んで小野がロングリリーフで登板したものの、6回に2点、7回に1点を奪われて2−3で敗れる。小野は、シーズン中の酷使により、球威が本調子から程遠かったと言われている。
 さらに3連敗で迎えた第4戦では小野が先発で5回1失点と好投したものの打線が沈黙し、0−1で敗れ、まさかの4連敗で日本一を逃す。 
 この日本シリーズは、すべて1点差での4連敗であり、大洋の三原脩監督の采配は、三原魔術と称賛を浴びた。
 小野が日本シリーズに出場したのは、この1回限りであり、日本シリーズ通算成績は、2試合に登板して0勝2敗、防御率3.27である。



 D5年連続与四球王

 小野は、長身左腕という貴重な投手でありながら制球難で、四球が多かった。しかし、入団当時の監督別当薫は、そんな小野の素質を買って積極的に起用し続ける。
 小野は、1年目から37試合に登板し、2年目にはエース級の扱いで55試合に登板して26勝を挙げる活躍を見せる。この年、7完封とリーグ最多完封を記録したものの四球は90個あった。
 1959年には22勝を挙げながら118四球で与四球王になり、その後、101個、97個、85個、123個と5年連続与四球王という日本記録を作ってしまう。
 それでも小野は、角度のある剛速球とブレーキの効いたカーブという長所を生かして、荒れ球を武器に大毎のエースとして君臨し続けたのである。
 

 E13球団から白星

 小野は、毎日で活躍した後、セリーグの大洋へ移籍し、中日で現役生活を終える。その間、小野は、パリーグでは毎日(大毎)以外の阪急・南海・東映・大映・西鉄・近鉄・高橋の7球団から勝利を挙げ、セリーグでは巨人・阪神・中日・大洋・広島・国鉄の6球団すべてから勝利を挙げた。これは、史上初の13球団から勝利という記録だった。
 小野が入団した当時、パリーグは8球団存在したため、このような記録が達成できたのである。

 その後、長年にわたって新規参入球団のない12球団制だったために、小野の記録は、長い間、忘れられていた。だが、21世紀に入ってオリックスと近鉄の合併と楽天の新規参入があったため、2007年7月24日に工藤公康が巨人から勝利を挙げて13球団から白星という記録を樹立する。それによって、小野の記録が再び日の目を見ることとなった。

  
 F通算2244奪三振

 小野は、通算200勝には16勝及ばない184勝で現役を終えているが、200勝と同等の価値を持つ2000奪三振を達成し、現役を通じて2244奪三振を記録している。全盛期は、角度のある剛速球とブレーキの効いたカーブでパリーグの強打者を手玉に取った。
 小野は、1960年に258奪三振を記録したのを筆頭にシーズン200奪三振以上を5度も記録している。それでも、当時はシーズン300奪三振以上の記録が多くあり、小野は、シーズン最多奪三振には1度も輝いていない。1960年は、杉浦忠に次いで2位、1963年も稲尾和久に次いで2位でシーズン最多奪三振を逃している。





(2008年10月作成)

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