岡田 彰布
 1957年11月、大阪府生まれ。内野手。外野手。右投右打。背番号16(阪神)→10(オリックス)。北陽高校から早稲田大学に進み、数々の記録を残してドラフトでは史上最多の6球団から1位指名を受ける。抽選になりながらも憧れの阪神に引き当てられ、1980年入団。
 1年目からレギュラー二塁手として打率.290、18本塁打、54打点という堂々たる成績を残して新人王に輝く。
 2年目には本塁打を20本の大台に乗せ、3年目の1982年には初の3割を達成。この年の8月19の広島戦ではセリーグ2万号となる記念本塁打を放っている。
 1983年は、ハイペースで本塁打を量産し、前半戦だけで17本塁打を放ったものの、右足を故障してしまい、後半戦を棒に振った。
 そして、1985年は4月に伝説のバックスクリーン3連発の締めを飾ると、そのシーズンは打ちまくり、打率.342、35本塁打、101打点という自己最高の成績を残して阪神をリーグ優勝に導いている。打率は、3冠王を獲ったバースを最後まで脅かしての2位であった。阪神は、日本シリーズでも4勝2敗で制している。
 1986年にも26本塁打を放ったものの、阪神は優勝を逃した。
 その後も、阪神の主砲として活躍を続けたが、1992年頃からは代打に回ることが多くなり、1994年に阪神での引退を拒んで現役続行のため、オリックスに移籍。
 オリックスで代打の切り札として打率.277を残す活躍を見せた。
 1995年、オリックスでリーグ優勝を経験するも、その年限りで現役を引退してオリックスのコーチとなった。その後、阪神の2軍監督を経て2004年、阪神監督に就任した。
 2005年にはリーグ優勝を果たしたが、2008年には巨人に13ゲーム差をつけて独走しながら逆転優勝を許し、その年限りで監督を勇退した。
 2010年からオリックスの監督として指揮を執る。

 並外れた素質で入団時から活躍し、鋭いスイングでヒットも本塁打も量産できる中距離ヒッターだった。阪神を日本一に導いた立役者である。

 通算成績(実働16年):打率.277、247本塁打、836打点、1520安打。新人王(1980)ベストナイン1回(1985)、ゴールデングラブ賞1回(1985)
 

数々の伝説


 @早稲田大学のセレクションで15打数14本塁打

 北陽高校での最後の夏、大阪府大会決勝で敗れて甲子園行きを逃した岡田は、卒業を控えて早稲田大学のセレクションを受ける。
 早稲田大学と言えば、東京六大学野球の名門である。そのセレクションの場で岡田は、前代未聞のバッティングを見せる。打席に立った岡田は、15打数で14本塁打する、という驚異的な打棒を披露したのだ。関係者は、皆唖然としていたと言われ、もちろん早稲田大学には軽く合格した。
 大学入学後の活躍も目覚しかった。3年秋には3冠王を獲得し、4年時には主将となる。通算打率.379という歴代1位の記録を打ちたて、通算本塁打20本も当時歴代2位の成績だった。
 岡田は、「田淵以来の大物」と騒がれ、プロの全球団から注目されるドラフトの目玉となった。


 A6球団競合のドラフト1位で入団

 東京六大学野球で通算最高打率を残した岡田に対する評価は、ドラフト始まって以来最高のものだった。それを示すかのようにドラフト会議では史上初の6球団競合という事態になる。
 岡田を1位指名したのは西武、ヤクルト、南海、阪神、阪急、近鉄。
 大阪で育った岡田は、熱烈な阪神ファンである。幼稚園時代にキャッチボールしてもらった三宅秀史に憧れ、小学生のときは甲子園に見に行っては長嶋茂雄を野次っていたという。だから、岡田は、阪神入団を希望していた。
 抽選では見事に阪神が当たりを引き当てる。6球団が競合しながら希望球団に入れる、という強運だった。


 B監督を解任に追い込む

 岡田は、プロに入るまでは主にサードを守っていた。
 しかし、阪神のサードには大打者、掛布雅之がいる。ショートには真弓明信、ファーストには藤田平がいる。そこで岡田は、セカンドへコンバートされることになった。
 ところが、セカンドにはヤクルトから移籍してきた外国人選手デイブ・ヒルトンがいた。岡田が入団したとき、監督をしていたのはかつて南海で選手として活躍したドン・ブレイザーだった。ブレイザー監督は、6球団1位指名の岡田を使わず、ヒルトンをレギュラーとして使った。そのヒルトンは、2割そこそこの低打率にあえぎ、思うように成績が伸びなかった。
 怒ったのは阪神ファンである。球場では「岡田」コールが起こり、球団には「岡田を使え」という内容の手紙、電話が殺到した。
 困った球団は、すかさずブレイザー監督を解任する。代わりに指揮を執ることになった中西太は、岡田を二塁手の先発メンバーとして起用した。
 この起用は、見事に成功し、岡田は、瞬く間に阪神のスター選手となっていく。


 C新人王

 ブレイザー監督解任以降、岡田は、二塁手のレギュラーの座に座り、活躍し始める。シーズンが終わったとき、岡田は、打率.290、18本塁打、54打点という好成績を残していた。ブレイザー監督に起用されなかったことが響いて108試合の出場にとどまり、20本塁打達成はならなかったが、文句なしの新人王に選ばれている。


 D阪神の3試合連続満塁本塁打の締め

 岡田と言えば、バックスクリーン3連発が代名詞のようになっているが、残した3連発の伝説はそれだけではない。
 1981年6月19日の大洋戦で阪神の藤田平は、初回1死満塁のチャンスで見事な満塁本塁打を放つ。4日後の23日にあった広島戦では、阪神の投手山本和行が4回1死満塁のチャンスで放った打球が意外にも満塁本塁打となり、阪神にとっては2試合連続満塁本塁打となった。
 翌24日の広島戦は、初回に阪神が1死満塁のチャンスを作る。ここで打席に入ったのが岡田である。
 岡田が放った打球は、ファンの歓声と共に弧を描いてスタンドに突き刺さる。阪神にとっては3試合連続の満塁本塁打達成の瞬間だった。
 しかし、この伝説が語られることはほとんどない。今となっては、4年後に起こる奇跡のバックスクリーン3連発の前兆にすぎないからかもしれない。
 

 E奇跡のバックスクリーン3連発の締め

 1985年、岡田は、入団時のセカンドに戻り、打撃で実力を存分に発揮できる環境が整っていた。
 結果はすぐに出る。4月17日、甲子園球場での巨人戦である。
 試合は、7回表まで巨人が3−1とリード。
 巨人のマウンドには若き日の槙原寛己がいた。
 7回裏、2死1・2塁から3番バースがまず豪快にバックスクリーンに叩きこみ、4−3と逆転に成功する。
 続く4番の掛布雅之がカウント1−1から同じくバックスクリーンにソロホームラン。
 その興奮が冷めぬうちに5番岡田が打席に入る。力まずに打つことしか考えていなかった、という岡田は、カウント1−0からのスライダーをまたしてもバックスクリーンへぶち込み、3連発となった。
 このバックスクリーン3連発は、奇跡と呼ばれ、阪神タイガースはこの3連発以降快進撃を続けて打ちまくり、この年は日本一にまで登り詰めている。
 また、この年の阪神クリーンアップの本塁打数はバース54本、掛布は40本、岡田が35本となり、クリーンアップで129本塁打という大記録を残している。


 F阪神で引退せず、オリックスで代打の切り札

 1992年から不振に陥っていた岡田は、1993年オフ、阪神から引退を勧告される。しかし、岡田は、現役続行にこだわり、引退を拒否して自由契約となり、同じ関西のオリックスに移籍する。
 1994年、岡田は、オリックスで代打の切り札として意地を見せる。打率.277、12打点を挙げたのである。
 1995年オフ、岡田は、オリックスで現役引退を表明し、2軍コーチに就任した。


 G阪神の監督としてリーグ優勝

 2004年に阪神監督に就任した岡田は、2005年にジェフ・ウィリアムズ(J)、藤川球児(F)、久保田智之(K)のリリーフ3枚を揃えるJFKを確立させ、打者では金本知憲、今岡誠、赤星憲広らが走攻守にわたって目覚ましい働きを引き出した。
 阪神は、交流戦で大きく勝ち越して首位に躍り出ると、そのまま首位を分け渡さず、9月29日には巨人を破ってリーグ優勝を決める。岡田にとっては、監督として初のリーグ優勝だった。
 阪神は、日本シリーズではロッテに4連敗し、20年ぶりの日本一を逃したが、岡田が確立したJFKのリリーフ3枚を揃える形は、プロ野球界に新たな分業形式を提起したという意味で高く評価されている。



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