小川 健太郎
 1934年1月、福岡県生まれ。右投右打。投手。背番号39(東映)→中日(59→13)。明善高校を卒業後、入団テストを受けて1954年、東映へ入団。しかし、1軍で登板することなく2年で自由契約となる。
 その後、軟式野球の照国海運や社会人野球のリッカーをはじめ、軟式野球、準硬式野球といったアマチュア球界を転々としていたが、1964年に中日へ入団。
 1年目は0勝に終わったものの2年目にいきなり17勝9敗、防御率2.43という成績を残して一躍中日のエースとなった。
 翌年も17勝し、4年目の1967年には29勝12敗、防御率2.51という好成績でついに最多勝を獲得する。そして、アンダースローとして初めて沢村賞にも選出された。
 1968年には10勝20敗でシーズン最多敗戦投手となったが、その翌年の1969年には再び20勝を挙げている。伝説の背面投げが飛び出したのはこの年である。
 しかし、1970年、オートレース不正事件に関与していたことが発覚し、プロ野球界から永久追放処分を受けた。

 アンダースローから繰り出す球威のある直球に浮き上がってから沈むシンカー、鋭いカーブ、シュートを織り交ぜて中日の不動のエースとして活躍した。また、背面投げでファンの度肝を抜いたり、奔放な私生活で球界を追放になるなど、常に話題を提供し続けた。 

通算成績(実働6年2ヶ月):95勝66敗、防御率2.62。739奪三振。最多勝(1967)沢村賞(1967)ベストナイン(1967)
数々の伝説


 @東映に入団するも2年で自由契約

 明善高校を卒業した翌年の夏、小川は、東映の入団テストを受けて見事合格。1954年、東映に入団している。
 しかし、東映は、球威はあるもののコントロールの悪い小川をなかなか一軍で起用しようとしなかった。
 それでも2年目の8月に小川は、西鉄戦でプロ初登板を初先発で起用されることが決まる。しかし、小川は、登板前夜に同僚と殴り合いの喧嘩をしてしまい、先発は取り消し。以後、登板のチャンスが巡ってくることはなかった。
 その年のオフ、小川は、一軍での登板が一試合もないまま球団から戦力外通告を受け、自由契約になる。
 それでも、小川は、アマチュアとして野球を続ける。小川の型破り伝説は、ここから始まったのである。


 A東映自由契約から9年後に中日入団
 
 小川は、東映をわずか2年で戦力外となって退団すると、軟式野球の照国海運を経て、社会人野球のリッカーに入る。そして、ノンプロから軟式野球、準硬式野球まで、様々な世界を転々とすることになる。所属も学研、新潟オール電化、立正佼成会と幅広い。一般人がやっているような草野球レベルの試合でプレーしていたこともあったという。
 しかし、そんな小川にも再びプロ入りのチャンスが訪れる。中日が手薄な中継ぎ陣を補強するために獲得に動いたのだ。1964年、小川は中日に入団し、2度目のプロ生活を開始する。小川は、このとき既に30歳。妻と3人の子供を養う父親でもあった。
 普通なら考えられない高齢の新人だった。


 B31歳4ヶ月でプロ初勝利

 中日に入団した小川は、球団の思惑通り1年目は中継ぎとして起用される。
 しかし、小川の球威と度胸に注目した西沢道夫監督と近藤貞雄コーチは、1965年5月12日の大洋戦で先発として起用する。
 すると小川は、大洋打線を散発4安打1失点に抑え、初先発初勝利を完投で飾ってしまう。実に31歳4ヶ月でのプロ初勝利。しかも、プロとして10年間のブランクを経てである。小川は、ここでも型破りだった。

 
 C沢村賞

 1967年、小川は、29勝12敗、防御率2.51という成績で最多勝を獲得した。以後、セリーグで29勝以上を挙げた投手は出ておらず、あと1勝していればセリーグ最後の30勝投手となっていた。それほどの活躍だった。
 完投も16試合にのぼり、文句のつけようのない成績であった。小川は、シーズン後、栄誉ある沢村賞に選出された。
 アンダースローの投手が沢村賞に選ばれるのは史上初。変則的な投げ方をする小川は、当時としては異例の選出であった。
 

 D子供を使って腕を治療

 小川は、中日のエースとなってから毎年50試合前後にものぼる登板をこなしていた。
 あるとき、小川は、右腕の酷使から腕が曲がったまま伸びなくなってしまった。普通なら病院に行ったり、休養をとってマッサージをしたりするところではあるが、小川は、子供に自分の腕を踏ませて伸ばそうとした。
 不思議なことに、子供に踏ませた腕はまっすぐ伸びるようになり、見事に治ってしまったという。

 
 E伝説の背面投げ

 1969年6月15日、小川は、後楽園球場での巨人戦に先発する。小川は、世界のホームラン王、王貞治を苦手にしていた。プロ入り以降、それまで9本もの本塁打を浴びている。
 3回裏2死ランナーなしという場面で王の2打席目がやってきた。
 小川は、カウント2−0と追い込み、勝負をかけた。普通は右足の脇あたりから繰り出すアンダースローの右腕を、何と背中の後ろから繰り出したのだ。球速は90キロ程度だったそうである。
 これは、小川がキャンプから5ヶ月間練習したという秘策「背面投げ」であった。当日、小川は、審判に「ボークにならないか」と確認し、問題ない、との回答をもらっていた。
 小川の背番号の後ろから投げ込まれた球は、わずかに左打席に立つ王の外角へ外れてボール。だが、王は、小川の術中にはまり、タイミングをずらされて一本足ではなく二本足になって構えていたという。
 この背面投げで調子が狂った王は、次のまともな4球目を打ち上げてライトフライに倒れている。

 6回裏にも小川は、王をカウント2−1と追い込んでから4球目に背面投げをした。今度はワンバウンドし、ボール。
 しかし、この打席でも完全に打ち気をそがれた王は、次のまともな球を簡単に見逃して三振に倒れている。
 小川の背面投げは、練習では3球に1球はストライクだったそうだが、本番ではわずかに2球投げただけで、いずれもボールだった。しかし、王は、完全に自分の打撃を狂わされて2打席とも凡退しており、かなりの効果はあったと言えるだろう。もちろん、背面投げを行ったのは小川が最初であり、その後、背面投げをする投手はまだ現れていない。


 F最後まで出さなかった股下投げ

 実を言うと小川は、背面投げと同時に股下投げをも練習していた。藤村富美男が投手をやっていたときにセットポジションから一塁ランナーを見るとき、股の下からのぞいた、という伝説は残っているが、股の下からバッターに投げた投手は皆無である。
 小川は、背面投げと同じだけ股下投げを練習しており、股下投げの方が遥かにコントロールがよかった、という。
 1968年6月15日の試合で王貞治に対して2球目の背面投げをした際、巨人の荒川博コーチから「なめた投球をするな」と野次られて「何なら股の下から投げてやろうか」と言い返した、という伝説もある。
 しかし、小川は、この股下投げを公式戦で最後まで披露することはなかった。
 それは、股下投げでは王貞治にタイミングが合いそうだったからだという。
 背面投げをした翌年5月、小川はプロ野球界を去る。もし小川が普通に引退するまで投げていたら股下投げが見られたかもしれない。しかし、あの事件がすべてを奪っていった。


 Gオートレース不正事件で永久追放

 1969年に発覚した「黒い霧事件」は、1970年に入ってプロ野球界全体に広がっていく。「黒い霧事件」とは、プロ野球選手が暴力団から現金を受け取って、故意に三振したり、KOされる、といった八百長行為を行っていた事件である。
 黒い霧事件でプロ野球界が震撼する中、新たな不正事件が表面化する。「オートレース不正事件」である。これは、暴力団とプロ野球選手が共謀してオートレースの1級選手に現金を渡し、オートレースでの八百長を仕組んでレース配当で不正に儲けていた、というものである。
 小川は、5月6日に警察へ出頭して逮捕される。セリーグは、小川を出場停止処分にした。小川は既に36歳になっていたが、依然として中日のエースだった。

 6月3日、小川は、ついにプロ野球コミッショナー委員会から永久失格処分を受ける。こうして、小川は、プロ野球界から永久追放されたのである。
 小川は、黒い霧事件の八百長にも絡んでいたのではないかという疑惑をかけられたが、それは、小川自身が法廷で否定している。仮に小川が永久追放にならず、プレーを続けていれば、どこまで通算成績を伸ばしたかは分からない。だが、永久追放の前年に20勝しているとことから見ても、とてつもない伝説をもっと残していたことだけは確かだろう。
 



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