緒方 孝市
 1968年12月25日、佐賀県生まれ。右投右打。外野手。背番号37→9。佐賀県立鳥栖高校から1987年にドラフト3位で広島に入団する。
 1991年、102試合に出場し、打率.185に終わったものの、5本塁打を放つ。この年、広島が優勝したため、日本シリーズにも出場している。
 その後、徐々に頭角を現し、1995年に打率.316、10本塁打、47盗塁で盗塁王を獲得する。ゴールデングラブ賞にも選出される。
 翌1996年には、打率.279、23本塁打、71打点、50盗塁の成績を挙げ、2年連続盗塁王を獲得し、ゴールデングラブ賞にも選出される。
 さらに、1997年には打率.271、17本塁打、57打点、49盗塁を残して3年連続盗塁王に輝くとともに、103得点を記録して得点王となる。3年連続ゴールデングラブ賞にも選出される。
 1998年には足首故障があったものの、打率.326を残し、1999年にも打率.305、36本塁打、69打点、18盗塁、111得点を記録して得点王となる。5年連続ゴールデングラブ賞にも輝いた。この年、FA権を獲得したが、行使せずに残留する。
 2000年には右膝故障、2001年には左太腿故障に苦しむも、2002年には復活を果たし、打率.300、25本塁打、73打点の活躍を見せる。
 2003年にも打率.300、29本塁打、82打点の活躍を見せる。
 2004年には打率.292、26本塁打、64打点を残し、2005年にも打率.306、21本塁打、57打点の活躍を見せる。
 2007年以降は右肘の故障もあって控えに回ることが多くなり、2008年からはコーチ兼任となる。2009年、打率.184、0本塁打に終わり、現役を引退した。
 2010年から広島のコーチを務め、2015年から広島の監督として指揮を執る。

 走攻守そろった万能プレーヤーで、現役前半は俊足を生かした盗塁と守備の名手として活躍し、現役後半はパンチ力を生かした中距離ヒッターとして活躍した。練習熱心でFA権を行使せず広島一筋を貫いた実直さは、ファンの支持も高い。

通算成績(実働22年):打率.282、241本塁打、725打点、1506安打、268盗塁。盗塁王3回(1995〜1997)ゴールデングラブ賞5回(1995〜1999)

数々の伝説


 @3年連続盗塁王

 緒方の名前を有名にしたのは、1995年の盗塁王である。この年、前田智徳がアキレス腱断裂で離脱したため、緒方は、前田の穴を埋めるべく奮闘し、塁に出たら走りまくってシーズン47盗塁を記録して初の盗塁王に輝く。
 そして、レギュラーを獲得した緒方は、1996年には大台に乗せる50盗塁、1997年にも49盗塁を記録し、3年連続盗塁王に輝いた。
 緒方の盗塁は、2塁ベース上付近でも全くスピードが衰えず、尻から深く滑る減速しないスライディングで確実に二塁を陥れた。その走塁技術は、金本知憲が見本とし、当時、無類の盗塁阻止率を誇っていた古田敦也でさえ、刺せないと嘆くほどだった。


 Aシーズン先頭打者本塁打8本

 緒方は、走好守が揃った選手であるとともに、本塁打を量産できる1番打者として他球団に恐れられた。
 そんな緒方の残した豪打ぶりが分かるのが先頭打者本塁打の記録である。1999年に緒方が記録したシーズン初回先頭打者本塁打8本は、当時の日本タイ記録だった。この年、通算100号本塁打も、先頭打者本塁打で決めている。
 緒方は、通算でも28本の初回先頭打者本塁打を記録している。


 B3割30本塁打

 緒方は、3年連続盗塁王を達成し、打率も本塁打も稼げる選手となっていただけに、トリプルスリーに近い男として注目を集めた。
 1995年には3割、30盗塁以上を記録するが、本塁打数が伸びずにトリプルスリー達成はならなかた。
 1998年にはトリプルスリーを狙えるペースでシーズン序盤は飛ばしたものの、足首故障によって盗塁数、本塁打数がシーズン後半に伸び悩んだ。
 1999年は、打率.305、36本塁打と初めて本塁打数が30本を超えて、盗塁数が届けば達成だったが、足首故障の影響もあって18盗塁に終わり、トリプルスリー達成はならなかった。


 C5年連続ゴールデングラブ賞

 緒方は、プロ入り後に内野手から外野手に転向したにもかかわらず、外野守備の評価が高く、俊足を生かした広い守備範囲と強肩で外野手としてゴールデングラブ賞の常連となる。
 レギュラーを獲得した1995年には外野手として97試合出場ながらゴールデングラブ賞を獲得し、1996年には15補殺を記録して2年連続ゴールデングラブ賞を獲得する。
 そして、1999年まで5年連続でゴールデングラブ賞を獲得し、守備の名手としての評価を固めた。


 DFA権を行使せず広島一筋

 1999年オフ、緒方は、FA権を獲得する。この年、打率.305、36本塁打、69打点、18盗塁を記録して脂の乗り切った時期だけに、長嶋茂雄監督の巨人やダイエーが獲得に動く。特に巨人からの誘いは、熱烈だったと言われている。
 しかし、緒方は、広島球団やファンへの愛着、広島出身の妻の希望もあって、FA宣言をせずに広島残留を決める。
 そして、その後も、FA権を行使せずに広島一筋で現役を終えた緒方は、将来の広島監督候補と呼ばれることになる。


 E故障と復活

 緒方の現役生活は、度重なる故障との闘いでもあった。1998年に外野フェンスに激突して起きた足首捻挫も盗塁数激減の原因となったが、最も大きな故障は、2000年3月31日の中日戦で本塁に滑り込んだ際に起きた右ひざ内側側副じん帯損傷である。この故障によって2000年は21試合出場に終わると、翌2001年も左太腿を痛めて64試合出場に終わる。
 これらの故障によって盗塁を積み重ねることが無理となった緒方は、打撃技術向上に専念し、2002年には打率.300、25本塁打、73打点の成績を挙げて復活を果たす。そして、翌2003年には自己最高となる159安打、82打点の成績をたたき出している。


 F広島監督就任

 広島一筋で現役を終えた緒方は、引退後、将来の監督候補として、すぐに野手総合コーチに就任し、2011年には守備走塁コーチ、2013年には打撃コーチ、2014年には野手総合コーチと経験を積み重ねる。その間、菊池涼介、丸佳浩、堂林翔太といった若手選手を育て上げ、チームを2年連続3位に押し上げた。
 そして、2014年限りで退任した野村謙二郎監督の後任として、広島の監督に就任した。






(2014年11月作成)

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