小笠原 道大
 1973年10月、千葉県生まれ。右投左打。内野手。背番号2(日本ハム・巨人)→36(中日)。暁星国際高校から社会人野球のNTT関東に進み、強打の捕手として頭角を現し、1996年の都市対抗野球では新日鐵君津の補強選手として活躍をする。
 1997年、ドラフト3位で日本ハムに入団する。1年目から、捕手と代打で44試合に出場する。
 2年目には71試合に出場して打率.302を記録し、1999年には打撃を生かすため、一塁手に転向してレギュラーを獲得する。この年には、強打の2番打者として25本塁打を記録する。
 そして、2000年には打率.329、31本塁打、102打点、182安打という素晴らしい成績でリーグ最多安打に輝き、一躍、球界を代表する選手となる。
 2001年には打率.339、32本塁打、86打点、195安打を残し、2年連続リーグ最多安打を記録する。
 2002年には打率.340、32本塁打、81打点、165安打で首位打者を獲得し、2003年にも打率.360、31本塁打、100打点、160安打で2年連続首位打者を獲得する。
 さらに2004年にも打率.345を記録し、4年連続で打率.330以上を記録する。
 2005年には自己最高の37本塁打を記録すると、2006年には打率.313、32本塁打、100打点で本塁打王、打点王の二冠王に輝き、日本ハムのリーグ優勝・日本一に貢献してシーズンMVPを獲得する。その年のオフ、巨人へ移籍。
 2007年には打率.313、31本塁打、88打点を記録して巨人のリーグ優勝の原動力となり、セリーグでもシーズンMVPを獲得する。その後も2010年まで5年連続で3割30本以上をクリアしている。2008年には打率.310、36本塁打、96打点で巨人のリーグ優勝に貢献し、2009年には打率.309、31本塁打、107打点で巨人をセリーグ3連覇と日本一に導いた。
 2011年5月、通算2000本安打を達成する。2013年オフにFAで中日へ移籍した。
 2014年は、代打の切り札として打率.301を記録する。2015年にも打率.294を残したが、その年限りで現役を引退。

 腰を落とし、腕を伸ばして構える独特の神主打法でフルスイングして本塁打も打率も稼ぐ驚異的な成績を残し続ける。ほぼ毎年、3割30本以上を残す安定した打撃で、日本ハムと巨人を常勝チームに引き上げてきた強打者である。

通算成績(実働19年):打率.310、378本塁打、1169打点、2120安打。首位打者2回(2002・2003)本塁打王1回(2006)打点王1回(2006)シーズンMVP2回(2006〜2007)最多安打2回(2000・2001)最高出塁率1回(2003)ベストナイン7回(1999・2001・2003〜2004・2006〜2007・2009)ゴールデングラブ賞6回(1999〜2003・2006)

数々の伝説


 @高校時代は本塁打0本

 中学時代の小笠原は、無名選手で、暁星国際高校に入れたのも、高校の監督が他の選手を見に行ったときに、中学の監督から頼まれてのことだったという。
 小笠原は、高校時代に捕手としてレギュラーを獲得したものの、甲子園出場はなく、高校通算本塁打数も0本だった。そして、小笠原は、無名のまま社会人野球のNTT関東に入ることになる。
 その後、都市対抗野球での活躍もあってプロ入りし、高校時代の本塁打数0本ながら、2006年にはパリーグ本塁打王を獲得するまでになる。


 Aプロでは内野手として頭角を現す

 小笠原は、ドラフト3位で入団し、与えられた背番号は2である。そこに期待の大きさがうかがえるが、プロ1年目は主に捕手と代打での出場だった。
 しかし、2年目には、内野手としても出場するようになり、打率.302を残して頭角を現す。そして、3年目の1999年には落合博満の引退で空いた一塁手としてレギュラーを獲得し、バントをしない2番打者として打率.285、25本塁打を放って落合の抜けた穴を埋める活躍を見せた。


 B神主打法でフルスイング

 小笠原の代名詞と言えば、低く腰を沈め、腕を前にのばして構える神主打法である。日本ハム時代、最初の2年間は神主打法で有名な落合博満と同僚だったため、小笠原は、落合のフォームや間の取り方を参考にした。
 そして、フルスイングは、入団1年目にコーチだった加藤秀司からの「何があっても振り抜く」という教えを小笠原が忠実に実践しているためである。実際、振り抜けば、詰まっていても内野の後ろに落ちることもあることから、小笠原は、常にフルスイングを心がけているのである。


 C2年連続首位打者

 小笠原は、フルスイングするにも関わらず、選球眼とミートの巧さも持ち合わせており、毎年のように3割以上を記録している。
 そのため、2000年には182安打、2001年には195安打を放って2年連続リーグ最多安打にも輝いている。
 そして、2002年には打率.340で初の首位打者を獲得し、2003年には打率.360で2年連続首位打者を獲得する。
 2004年にも打率.345を記録したが、打率.358の松中信彦に次いで2位となり、惜しくも首位打者は逃している。
 小笠原は、2000年から2004年まで打率3割以上を記録するとともに、30本塁打もクリアしており、高打率で本塁打も量産する強打者として、これまで9回にわたって3割30本塁打を記録している。


 D二冠王で日本ハムを日本一に

 小笠原が入団してから9年間、日本ハムは、優勝に恵まれなかった。
 そして、ようやく優勝のチャンスが巡ってきたのが2006年のことだった。この年、新庄剛志が引退宣言をしたことで、一丸となったチームが波に乗り、パリーグのリーグ優勝を果たす。小笠原は、中心打者として打率.313、32本塁打、100打点の活躍を見せて、本塁打王と打点王の二冠を獲得する。打率でも首位打者と1分1厘差のリーグ4位の成績であり、もう少しで三冠王という成績だった。その活躍により、小笠原は、ベストナインとゴールデングラブ賞を獲得し、シーズンMVPにも選出される。


 E両リーグでシーズンMVP

 2006年オフ、FA権を取得した小笠原は、FA宣言して4年契約で巨人に移籍する。2006年には1塁を守っていたが、チーム事情で3塁を守ることになった。
 慣れないセリーグでも小笠原は、打率.313、31本塁打、88打点と前年に勝るとも劣らぬ成績を残し、巨人をリーグ優勝に導く。その功績が認められた小笠原は、セリーグのシーズンMVPを受賞する。
 前年のパリーグでのシーズンMVPに続き、リーグをまたいで2年連続受賞という前人未到の金字塔を打ち立てた。
 また、両リーグでシーズンMVPを受賞したのは、江夏豊以来、プロ野球史上2人目であり、野手としては史上初の快挙だった。


 F巨人のリーグ3連覇に貢献

 2008年、巨人は、ラミレス・グライシンガー・クルーンの大型補強で常勝チームを作り上げる。小笠原は、前半戦こそ、オフに受けた左膝手術の影響で調子が上がらなかったものの、夏場から急激に調子を上げて、7月以降すさまじいペースで打ちまくる。それとともにチームも勢いづき、阪神に最大13ゲーム差をつけられながらも、10月8日に逆転してそのままセリーグ2連覇を果たす。この優勝は、「メイクレジェンド」と呼ばれた。
 2009年には、小笠原・ラミレスを軸に若手の活躍もあって鉄壁の強さを誇り、圧倒的な強さでセリーグ3連覇を果たし、その勢いで日本ハムも4勝2敗で破って、巨人の日本一に貢献する。
 巨人の3連覇は、巨人移籍後、3年連続3割30本塁打以上を記録した小笠原抜きでは成しえなかった。そして、セリーグでの3連覇以上は、ON時代の巨人V9以来となる快挙だった。


 Gメイクレジェンドの象徴となるサイクルヒット

 2008年9月3日、小笠原は、京セラドーム大阪で行われた広島戦で、1回裏にセンター前安打を放つと、第3打席では左中間スタンドに飛び込む2ラン本塁打を放つ。そして、6回の第4打席では、センターへフェンス直撃のタイムリー3塁打を放つ。
 迎えた8回の第5打席では、ライト線を破る2塁打を放って、史上62人目となるサイクルヒットを記録する。
 この試合は、乱打戦となったが、巨人が10−9で押し切って勝つ。巨人は、首位阪神を猛追しており、「メイクレジェンド」の逆転優勝へまい進する強さを印象付けた。


 H史上四番目の速さで2000本安打達成

 2011年、2000本安打まであと11本で開幕した小笠原は、極度の不振に陥り、足踏み状態が続く。
 ようやくにして2000本安打を達成したのは、5月5日の阪神戦だった。8回に小林宏之からセンター前ヒットを放ち、史上38人目となる2000本安打を達成した。
 1736試合での達成は、川上哲治、長嶋茂雄、張本勲に次いで史上4番目のスピード記録だった。





(2011年6月作成)

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