落合 博満
 1953年12月、秋田県生まれ。二塁手・三塁手・一塁手。右投右打。背番号6(ロッテ・中日)→60(巨人)→6(巨人)→3(日本ハム)。秋田工高・東洋大学(中退)では無名だったが、社会人野球の東芝府中で活躍し、1979年ドラフト3位でロッテ入団。独特の「神主打法」を生み出し、優勝請負人として4球団(ロッテ→中日→巨人→日本ハム)を渡り歩く。
 1981年に首位打者になると、1982年に打率.325、32本塁打、99打点で最初の三冠王を獲得。28歳での獲得は史上最年少だった。以後、1985年・1986年にも三冠王を獲得。特に1985年は、打率.367、本塁打52本、打点146という驚異的な記録をマーク。1986年にも打率.360、50本塁打、116打点で2年連続50本塁打の偉業を達成する。
 1987年にセリーグの中日に1対4のトレードで移って、日本人選手初の1億円プレーヤー(その後、初の2億円&3億円&4億円プレーヤー)となる。1990年に34本塁打102打点で本塁打と打点の二冠王を獲得。中日で1988年のリーグ優勝、巨人で1994年の日本一・1996年のリーグ優勝に大きく貢献。
 日本ハムで2年目の1998年シーズン終了後、自由契約となり、そのまま引退(45歳)。2004年に中日の監督として指揮を執り、オレ流采配によってチームをリーグ優勝に導いた。そして、2006年にも阪神との激闘を制して2度目のリーグ優勝を果たした。
 2007年にはシーズン2位からクライマックスシリーズを5連勝で勝ち上がり、日本シリーズでは日本ハムに4勝1敗で雪辱を果たして中日を53年ぶりの日本一に導いた。さらにアジアシリーズでも優勝を果たし、アジア一となった。
 2010年には強打の阪神・巨人との激闘を制して3度目のリーグ優勝を達成する。
 2011年1月、殿堂入り。
 現役を通じて、実力に裏打ちされた個人主義(「オレ流」という言葉は有名である)と理論で、常に野球界の不条理に立ち向かう姿は、多くの問題を提起した。

 落合の神主打法は、神主がお払いをするかのように構えるときに自然体のまま、バットを横に寝かせてゆったりと待ち、遠心力を最大限に利用したアウトステップの打ち方で外角の球でもいとも簡単に右翼席まで運んでしまう打法である。

通算成績:打率.311(歴代7位)、本塁打510(歴代6位)、打点1564(歴代5位)、安打2371。首位打者5回、本塁打王5回、打点王5回。三冠王3回(歴代1位)は、不滅の大記録である。


 数々の伝説

 @8回入部、7回退部

 秋田工高時代、上下関係や精神主義を嫌う落合は、頻繁に野球部を退部、大会前に呼び戻されて再入部、ということを繰り返していた。
 しかし、野球自体は好きだったため、正式に一度も退部届は出していない、という。 


 A初心者マーク付け忘れでプロボウラーになれず

 落合は、野球部の不可解な上下関係の厳しさに反発して大学を中退し、プロボウラーを目指してボウリング場でアルバイトを続ける。
 そのプロテストの直前、運悪く初心者マークの付け忘れで警察に捕まり、プロテスト用に蓄えてあった貯金を罰金として取られる。
 この運の悪さから、落合は、プロボウラーをあきらめ、東芝府中に入社。2年ぶりに野球を再開して好成績を残し、プロ野球のロッテにドラフト3位で入団した。


 B酷評

 落合は、1979年、25歳のとき、ドラフト3位でロッテに入団。ダウンスイング全盛期にあって、一見アッパースイングに見える落合の神主打法は、監督・コーチ・評論家から酷評された。
 しかし、周りの意見に左右されることなく自ら生み出した技術を貫いて磨き、入団3年目にして首位打者、4年目に3冠王を獲得した。


 Cピッチャー返し

 ロッテ時代、ピッチャーに球をぶつけられたこと(死球)に激怒した落合は、次の打席で強烈なピッチャー返しを狙い打った。打球は、見事に投手の体に当たり、仕返しに成功。
 本人は、のちに「長いプロ生活の中でも会心の当たりだった」と振り返っている。


 D不滅の三冠王3度

 1982年、落合は、打率.325、32本塁打、99打点という好成績で史上最年少の三冠王を獲得する。しかし、周囲の評価は低かった。それぞれの部門でレベルが低い、というのである。確かに落合の前に三冠王を2度獲得した王貞治は、1973年に打率.355、51本塁打、114打点、1974年にも打率.332、49本塁打、107打点で2年連続して文句のつけようのない三冠王を獲得していたのだ。
 それなら文句のつけようのない三冠王を獲得してやろう。そう意気込んだ落合だが、さすがに三冠王はそう易々と獲得できるものじゃない。そればかりか、1984年には阪急のブーマーが打率.355、37本塁打、130打点という1982年の落合以上の成績で三冠王を獲得して脚光を浴び、世間はもてはやした。一方の落合は、ブーマーの陰に隠れて無冠に終わる。
 窮地に陥った落合は、翌1985年に打ちまくる。打率.367、52本塁打、146打点で、3部門とも圧倒的な大差をつけて三冠王を獲得したのである。もちろん王貞治の2度の三冠王の記録と比較してもどの部門でも勝っている。
 周囲の低評価は覆したが、落合は、それで手を緩めることはなかった。
 翌1986年にも打率.360、50本塁打、116打点で2年連続三冠王に輝いたのだ。しかも、3度目の三冠王は、王貞治の2度を抜いて日本新記録、さらに大リーグでさえ過去に例がない大記録となった。


 Eノーヒットノーラン負け寸前の試合を逆転サヨナラ本塁打で勝ち試合に

 中日時代の1989年8月12日、巨人のエース斎藤雅樹投手が9回1死までノーヒットノーランピッチングを繰り広げたため、0‐3と巨人にリードを許す。しかし、そこから中日は反撃に転じる。まず、音重鎮がチーム初安打してノーヒットノーランを逃れた。その後、すぐに2アウトとなったが、四球とヒットで1点返してなお2アウトでランナー2人が残った。
 そこで打席に入ったのが落合だった。落合は、斎藤の直球を右中間へ逆転サヨナラ3ランホームラン。
 落合本人によると、打ってから後のことは興奮であまり覚えていないという。


 F6打数5安打

 1991年、落合は、ヤクルトの古田敦也捕手と激しいデッドヒートを演じていたが、落合は残り2試合で、古田に大きくリードを許す。落合が三冠王を狙ってすべての打席で本塁打狙いをして打率を落としたのが原因だった。
 ヤクルトとの最終戦ではすべて敬遠され、6打席連続四球という日本記録が誕生している。
 結局、落合は、残り2試合で6打数5安打以上か、9打数6安打以上を打たなければ、逆転できなくなった。
 しかも、最後の2試合は、広島とのダブルヘッダーという過酷さであった。しかし、第1試合で落合は、4打数3安打。その時点で2打数2安打以上か、5打数3安打以上が必要という状況にまで追い込まれた。それでも、落合は、広島最終戦で何と2打数2安打し、古田を逆転。
 残念ながら、まだ残り試合のあった古田がその後の試合で1打数1安打し、再逆転したため、タイトル奪取はならず、本塁打王の1冠に終わった。


 G年俸調停

 プロ野球の労組結成後6年がたった1991年、落合は、年俸を不服として、調停を申請した。大リーグでは頻繁に行われている年俸調停も、経営側の権力があまりに強い日本ではこれが初めてであった。
 落合の申請は、こうした選手側の弱腰に対して発奮を促す目的が大きかったのだが、マスコミからは「球団との確執」、国民からは「金へのこだわりの強さの表れ」としか見られず、多くの誤解を受けた。
 結果は、予想通りオーナー会議で選ばれたコミッショナーによって、経営側寄りの裁定となった。
 また、落合は、選手の権利の拡大にも熱心だったが、経営側に抑えられ、あまりの無力さに責任を感じて一人で労組を脱退、ということも行っている。


 HFA宣言

 FA(フリーエージェント)制度は、選手側の選択の自由が確立された画期的な制度であり、落合は、その制度を強固にするために初年度の1993年にFA宣言。
 最も自らに高評価をくれた巨人に入団。このときも、「落合も巨人に入りたかったのか」と多くの人に誤解を受ける。
 しかし、入団3年後、成績が3割20本塁打を超えていたにも関わらず、清原入団で翌年度から代打に回す、との球団首脳の方針を聞いた落合は、いとも簡単に巨人を捨てて日本ハム入りし、誤解を晴らした。
 だが、落合在籍中、巨人は3年で2度の優勝を成し遂げたため、皮肉にも手当たり次第、次々と金でFA選手を集めるまでに堕落していく。


 I名球会入り拒否

 落合は、2000本安打以上を放ち、打者は安打2000本以上、投手は200勝以上に与えられる栄誉である名球会入りの条件を満たした。しかし、落合は、入会を拒否。
 理由は、その記録に達しなくても優れた選手が多くいるのに、長くやっていればできる記録が判定基準になっているから。基準の不公平さに異論を唱えるとともに、名球会入りできなかった大選手に配慮してのことである。
 落合は、後にプロ経験者なら誰でも入れるプロ野球OBクラブに加入している。


 J節目はすべて本塁打

 落合は、プロ通算500本安打、1000本安打、1500本安打、2000本安打をすべて本塁打で飾っている。これは、もちろん過去に例はなく、奇跡に近いものであるが、おそらく狙って打ったものと思われる。
 その証拠に、中日時代、練習の終わりに「あと10本ホームランを打ったら帰る」と若手の前で宣言してフリー打撃をしてみせ、11スイング中10本塁打して帰って行った、という伝説が残っている。


 K右翼席へ本塁打

 右打者でライト打ちのうまい選手は、多いが、常に右翼席へ本塁打を打てる選手は皆無に近い。
 落合は、ライトへの本塁打が非常に多く、現役510本中176本がライトへのホームランである。この特異な技術は、独特の打法と卓越した技術から生み出されるものであり、アウトコースの球を払うように打って本塁打する姿に感嘆したスポーツライター山際淳司は『アウトコース』という作品を著している。


 L伝説の試合10.8

 1994年、巨人は、一時の独走態勢から急降下。129試合目にして中日と同率で首位に並び、10月8日の巨人×中日最終戦で勝ったほうが優勝という状況になった。
 この年、巨人を優勝させることができなければ引退することを決めていた落合は、ただならぬ雰囲気の中、2回に先制ソロホームランを右中間スタンド中段に打ちこむ。このホームランは、試合後、読売の渡辺社長が「1億円ホームラン」と賞賛した。
 同点に追いつかれた3回にはライト前に勝ち越しタイムリーを放つ。結果的にこれが決勝点となった。
 落合は、3回裏の守備で足を痛めてベンチに退くが、巨人は槙原・斎藤・桑田の3本柱を投入して6対3で勝ち、優勝した。


 M監督として現有戦力の底上げでリーグ優勝

 2004年、落合は、中日の監督として様々な斬新策を打ち出した。1年間の解雇・トレード凍結、1・2軍を切り分ない春季キャンプ、一芸を磨く指導、トスバッティングの廃止。
 現有戦力の10%底上げによる強化を図った落合中日は、開幕戦から復活をかける川崎憲次郎先発で幕を開けた。それが大きな痛手となってしまうのを防ぐ最善の策だったことが明かされるのはシーズン後のことである。
 キャンプから横一線でスタートさせ、支配下選手の大部分を1軍で起用し、競争力を高める落合の采配は、1年目から功を奏し、6月に首位に立つと独走態勢を築く。リーグ最小失策記録を達成する鉄壁な守備陣を作り上げ、抜群の投手力で僅差の勝利をものにする守りの野球を落合はシーズンを通じて貫いた。まさに巨人とは対照的なやり方でリーグ優勝をもぎとったのである。


 N監督として中日を53年ぶりの日本一に導く

 2007年、落合は、ぶっちぎりの優勝を宣言して臨んだが、主力選手の故障により、巨人に1.5ゲーム差をつけられて2位に終わる。
 しかし、シーズン中に無理をさせなかった投手起用が功を奏し、クライマックスシリーズでは阪神、巨人に怒涛の5連勝を飾る。
 さらには、シーズン前に落合自らが獲得して育成選手からレギュラーに登り詰めた中村紀洋を筆頭に投攻守がかみ合い、日本シリーズで日本ハムに4勝1敗と前年の雪辱を果たす。この日本一は、落合が現役だった当時の中日でも達成できておらず、中日としては実に53年ぶりの歓喜だった。
 また、このシリーズ第5戦では8回まで完全試合の快投を見せながらもマメをつぶしていた山井大介投手を降板させ、9回に守護神の岩瀬仁紀投手を送るという勝負に徹した采配は、話題を呼んだ。





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