野村 謙二郎
 1966年9月、大分県生まれ。右投左打。内野手。外野手。背番号7。佐伯鶴城高校から駒澤大学へ進み、ソウル五輪に出場して銀メダル獲得に貢献した。1989年、ドラフト1位で広島に入団。
 1年目から1軍で88試合に出場し、21盗塁を決める俊足ぶりを披露する。
 2年目には遊撃手のレギュラーに座って打率.287、16本塁打、33盗塁という成績を残し、早くも盗塁王のタイトルを獲得する。翌1991年には打率.324、170安打、31盗塁を残して最多安打、盗塁王に輝くとともに、広島のリーグ優勝に大きく貢献した。初のベストナインにも選出されている。
 そして、1994年には打率.303、169安打、37盗塁で2度目の最多安打と3度目の盗塁王を獲得する。
 1995年には打率.315、32本塁打、30盗塁で史上6人目のトリプル3を達成し、173安打はリーグ最多安打だった。その活躍により、チームも2位に食い込む。この年、ベストナインとともにゴールデングラブ賞も受賞している。
 1996年には2年連続3度目のベストナインに選出される。
 1997年には7度目のシーズン20盗塁以上を記録し、オフには大リーグからのオファーもあった。1998年には9年連続2桁本塁打を記録。1999年には史上4位の速さで通算1500本安打を達成し、シドニー五輪予選にも出場した。
 2005年、通算2000本安打を達成したが、それを置き土産に現役を引退した。
 2010年から広島の監督として指揮を執る。

 俊足と確実性の高いミート力で、広島の核弾頭として1990年代の広島を引っ張った走攻守揃った万能選手である。大差がついた試合でもヘッドスライディングを厭わないほど、常に闘志が伝わる全力のプレーでファンやチームメイトの信頼が厚かった。150安打以上を7度記録するなど、セリーグ屈指の安打製造機として大卒ながら通算2000本安打を成し遂げた。

通算成績(実働17年):打率.285、169本塁打、765打点、2020安打、250盗塁。盗塁王3回(1990〜1991・1994)最多安打3回(1991、1994〜1995)ベストナイン3回(1991、1995〜1996)ゴールデングラブ賞1回(1995)
数々の伝説

 @アマチュア時代はソウル五輪銀メダル

 野村は、高校までは無名だったが、駒澤大学で頭角を現し、大学リーグ記録となるシーズン18盗塁を決めるなど、走攻守揃ったプレーヤーとして注目を集めた。そして、野村の名を全国に知らしめたのがソウル五輪である。野村は、古田敦也、野茂英雄、潮崎哲也といったそうそうたるメンバーとともにソウル五輪に出場し、見事銀メダルを獲得してみせたのである。
 その能力の高さにプロも目をつけ、野村は、山本浩二、衣笠祥雄が引退して打撃陣が手薄になっていた広島にドラフト1位で入団することになる。


 A広島のリーグ優勝に貢献

 1991年の広島は、投手陣が好調だった。佐々岡真司、川口和久、北別府学の強力な先発陣と鉄壁の守護神大野豊を擁して、中日を終盤に逆転してのリーグ優勝を果たす。
 一方、大砲不在の打撃陣の中で最も活躍したのが、野村だった。ショートという負担の大きい守備位置に着きながら全試合に出場して打率.324、10本塁打、66打点、31盗塁、170安打の活躍を見せたのである。盗塁王と最多安打の2冠に輝き、打率はリーグ4位とMVP級の活躍ではあったが、シーズンMVPには佐々岡真司が選出された。
 野村は、日本シリーズでも全7試合に出場して打率.333を残すが、西武に3勝4敗で敗れた。
 このリーグ優勝は、野村の功績が非常に大きく、これ以降、野村はチームリーダーとして攻守の要となっていく。そして、広島は、これが20世紀最後のリーグ優勝となった。


 B3度の盗塁王

 入団1年目に21盗塁を決めた野村は、その活躍が評価され、2年目の1990年は、ロッテへ移籍した高橋慶彦が守っていたショートのレギュラーを獲得する。
 そして、高橋の穴を見事に埋めるかのように33盗塁を決めて盗塁王を獲得するのである。翌1992年には成功率を飛躍的にアップさせ、前年に23あった失敗をわずか5に抑えて31盗塁で2年連続盗塁王に輝く。
 1995年にも自己最高の37盗塁で3度目の盗塁王に輝いた野村は、その後、度重なる足の故障に悩まされながらも、現役を通じて250盗塁を成功させることになる。


 C安打製造機

 盗塁と共に野村の最大の魅力と言えば、卓越したバッティングセンスである。左打席と俊足を生かした内野安打をはじめ、広角に打ち分ける二塁打、三塁打など長打も多く、状況に応じてどんなバッティングでもできる打者だった。
 1990年代のパリーグの安打製造機がイチローなら、セリーグの安打製造機は間違いなく野村だった。野村は、1990年代、3度の最多安打を記録するとともに150安打以上を実に7回も記録している。また、通算1500本安打達成までの試合数は、1289試合で歴代4位のスピード記録でもあった。


 Dトリプルスリー

 1995年の野村は、この年、本塁打を量産し、打率.315、32本塁打、30盗塁を記録して史上6人目となるトリプルスリーを達成する。トリプルスリーとは、3割、30本塁打、30盗塁をすべてクリアすることで、広角に打てて、パンチ力があって、さらに俊足であるという条件が求められる。3割、30盗塁は、既に2度クリアしていた野村にとって、ネックとなっていたのは本塁打数であった。しかし、1995年は序盤からハイペースで本塁打が出て、20本塁打を突破したことのない野村が一気に30本塁打の大台に乗せたのだった。
 しかも、この年は、守備面でも評価され、遊撃手としてゴールデングラブ賞を受賞しており、まさに走攻守が完璧なまでに揃った自己最高の年であった。


 Eメジャー挑戦断念

 1997年オフ、野村は、FA権を取得する。広島カープを愛する野村にとって、日本の他球団への移籍はありえなかった。だが、野村は、大リーグに挑戦したいという願望を持っていた。また、大リーグで活躍できる選手として野村はよく名前を挙げられていた。
 そんな野村を獲得しようと動いたのが大リーグのデビルデイズだった。当時、日本人野手として大リーガーになった者はまだ1人もいなかった。そのため、野手は大リーグでは通用しないという先入観が日本にあった。
 野村は、父親や大学時代の監督など、周囲の人々に相談するも、反対意見が圧倒的に多く、悩んだ末に大リーグ挑戦の夢をあきらめる。野村にとって唯一の心残りがあるとすれば、日本人野手初の大リーガーになりそこねたこのときの決断なのかもしれない。


 F大卒で通算2000本安打達成

 1999年に通算1500本安打を史上4位の早さで達成した野村だったが、その後の野球人生は度重なる足の故障に悩まされて大きくペースを落とす。
 2000年以降は、なかなかシーズン通しての出場ができない状態が続き、2000年にはシーズン50安打、2002年には37安打しか記録できないなど、窮地に立たされる。しかし、野村は、2000本安打達成に執念を燃やし続けた。
 不屈の闘志で故障を克服し、ついに2005年6月23日、ヤクルト戦の4回に川島亮投手からレフト線に落ちるヒットを放ち、通算2000本安打を達成する。通算2000本安打は、プロ野球史上33人目で、大卒選手では7人目の快挙達成だった。


 G永久欠番を辞退

 2005年限りで現役を引退した野村に広島は、野村が入団以降ずっと着けていた背番号7を永久欠番にしたいとの意向を示した。
 広島で永久欠番になっているのは山本浩二(背番号8)と衣笠祥雄(背番号3)の2人だけである。野村も、彼ら2人に続いて球団史上3人目の通算2000本安打を達成したとあって、永久欠番とするには申し分ないと思われた。
 しかし、野村は、そんな永久欠番の打珍を謙虚に受け止め、辞退する。球団は、野村の心情をくみ、今後、野村が背番号7に値すると認める選手が現れるまで背番号7を空番にするという極めて異例の措置をとることを決めた。





(2006年1月作成)

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