野茂 英雄
 1968年8月、大阪府生まれ。投手。右投右打。背番号11(近鉄)→16(ドジャース・メッツ)→11(ブリュワーズ)→23(タイガース)→11(レッドソックス)→10(ドジャース)→11(デビルレイズ)→91(ロイヤルズ)。成城工高から社会人野球の新日鉄堺に入社。ここで、頭角を現し、アジア最優秀選手賞、都市対抗優秀選手賞などを獲得する。
 1990年、ドラフトで8球団1位指名の競合の末、近鉄に入団。いきなり18勝8敗の成績を残し、最多勝と最優秀防御率(2.91)、奪三振王(287個)、最高勝率(.692)など、ほとんどのタイトルを獲得して新人王にも選出される。以後、1993年まで17勝、18勝、17勝と続け、4年連続最多勝・最多奪三振を記録する。
 1995年、紆余曲折を経て日本で任意引退扱いとなって、大リーグのドジャースに入団する。マイナー契約から大リーグにはい上がり、13勝6敗、236奪三振で新人王と最多奪三振を記録する。オールスターゲームでも先発投手に起用され、ドジャースのプレーオフ出場にも貢献する。
 その後、メッツ、ブリューワーズ、タイガースを経て、レッドソックスへ移籍。
 2001年にはレッドソックスの先発として開幕初登板でノーヒットノーランという偉業を成し遂げ、両リーグでノーヒットノーランを成し遂げたのはライアン以来史上4人目となった。さらにこの年はシーズン220奪三振で最多奪三振のタイトルも獲得した。
 2002年にはドジャースに復帰して16勝6敗という好成績を残し、2003年にも2年連続16勝を記録する。 
 2005年6月にはこの年から在籍するデビルレイズで日米通算200勝を達成した。
 その後、右肘の故障して手術し、リハビリを経て2008年にはロイヤルズで3年ぶりに大リーグ登板を果たすが、結果を残せず、その年の7月、現役を引退した。
 2014年1月、野球殿堂入り。
 日本人選手として、大リーグ移籍の先駆者となった功績は、野球史だけでなく日米の歴史の上でも重大である。

 大きく振りかぶり、投球動作のときに左足を上げたまま体全体をセンター方向にひねり、その反動を最大限に利用した150キロの重い速球と二種類のフォークで三振の山を築く。その独特の投法は、トルネード投法と呼ばれ、日米双方でブームとなり、特にアメリカでは「ノモマニア」なる熱烈なファンも多く現れた。

日本での成績(5年間 1990〜1994):78勝46敗1S、防御率3.15、1204奪三振 最多勝4回(1990〜1993) 最多奪三振4回(1990〜1993) 最優秀防御率1回(1990) 最高勝率1回(1990)新人王(1990)シーズンMVP1回(1990)ベストナイン1回(1990)沢村賞1回(1990)
大リーグでの成績(12年間 1995〜2005・2008):123勝109敗、防御率4.24、1918奪三振 新人王(1995)最多奪三振2回(1995・2001)
プロ成績合計(17年間):201勝155敗1S、防御率3.86、3122奪三振

数々の伝説



 @入団契約

 野茂は、他人に真似できないトルネード投法を武器としているが、近鉄入団時、「投球フォームの改造は一切しない」という条件を球団側に認めさせている。
 投球フォームを契約に入れたのは、史上初のことである。
 仰木監督は、当初多くあった野茂のフォームへの批判を一切聞き入れず、野茂独自のトレーニング法での調整をさせている。野茂も、それに応えるかのように一年目から最多勝を獲得する。そして入団後、4年連続最多勝は、日本記録となった(それまでの最高は宅和元司と権藤博の2年連続)。


 A新人王

 野茂は、1990年、近鉄で18勝を挙げて、新人王に輝いている。この年は、八冠にも及ぶタイトルを獲得し、チームは優勝を逃したにも関わらず、パリーグのシーズンMVPに選ばれている。
 5年後の1995年、ドジャースに入団した野茂は、13勝を挙げてナリーグの新人王となる。
 これは、日米でシーズン10勝を挙げたのも初めてながら、日米で新人王となったのも史上初である。
 大リーグ選手が日本のプロ球団に入っても、新人王を獲得することは不可能である(そうなれば毎年、外国人が新人王)ので、日米で新人王となるには、日本人選手が渡米して1年目から大活躍をしなければ無理である。したがって、この記録を破る選手は、当分出現しないと言ってよいだろう。


 B近鉄の任意引退選手

 野茂は、日本プロ野球の一流選手で、初めて大リーグ入りした選手である。
 元々、野茂は、近鉄に対して、複数年契約と代理人制度を希望したにすぎなかった。しかし、近鉄側は、野茂が1994年に肩を故障してシーズン後半に登板できなかったのを理由に拒否する。
 その後、野茂は、近鉄退団を決意し、大リーグ挑戦を狙う。
 しかし、日本では全くというほど、放出方法が整備されていなかった。交渉は、スムーズに進まず、野茂は日本を追い出されるように、近鉄を任意引退選手という扱いで放出された。

 野茂が大リーグで活躍したことで、日本でも規則の整備が考えられるようになり、1998年にはFA権を持たない選手でも、所属球団の合意に基づいて大リーグへ移籍できるポスティング制度が導入されることになった。


 C年俸980万円

 野茂は、近鉄入団時、年俸1000万円で契約している。
 しかし、4年連続最多勝を挙げて日本球界のエースとなったにも関わらず、大リーグのドジャースとの契約は、年俸980万円であった。
 これは、日本の一流選手の大リーグ入団が初めてであったことと、野茂の実力を測りかねたためである。
 当時の日本では、日本人選手が大リーガーとして活躍することはできない、という見方が大勢を占めていた。そのため、日本球界だけでなく、アメリカ球界でも、野茂が大リーグで新人王になるとは誰一人思っていなかった。それほど、野茂の近鉄退団からドジャース入団の頃のバッシングは大きかった。 


 D卓越した適応能力

 野茂は、大リーグ挑戦に対して家族の反対もなく、アメリカの食事も全く苦にならず、日本とは比べものにならない長距離移動と時差ボケも全く気にならないという。
 言葉の違いすら、全く問題にしていない。
 投球フォームやトレーニング法の独自性も、すべてが自己管理に任されるアメリカ向きである。
 野茂がドジャース入団後すぐにアメリカ野球に適応し、1年目から活躍できた理由の一端はここのようである。


 E日米でオールスター出場&月間MVP

 1995年、野茂は、大リーグのオールスター出場を果たし、しかも先発投手という栄誉を得た。日本でも1990〜1994年まで5年連続出場しており、日米でのオールスター出場と先発投手という記録を樹立した。
 また、1995年6月、野茂は、6勝0敗、防御率0.89という驚異的な記録を残し、ナリーグの月間MVPに選ばれる。
 これまた、初の日米での月間MVP受賞である。


 F大リーグでノーヒッター

 1996年9月17日、野茂は、強打のロッキーズを相手にノーヒットノーランを達成する。
試合が行われたクアーズ・フィールドは、海抜約1600メートルの高地にあり、打球がよく飛ぶということで有名な球場であり、野茂以前にこの球場でノーヒットノーランを達成した人物はいない。
 しかも、この日は雨のため、試合開始が予定より2時間も遅れていて、マウンドもぬかるんでいた。そんな投手には不利な条件下でも動じない精神力が野茂にはあった、と言えよう。
 試合は、9ー0でドジャースの圧勝だった。
 野茂は、近鉄時代、一度もノーヒットノーランを達成していない。そのため、意外にもこれが初めてのノーヒットノーランである。


 G二種類のフォーク

 野茂は、日本でも大リーグでも、驚くほどの奪三振率を記録している。そのため、彼は、「ドクターK」という愛称を持っている。
 その奪三振を支えているのが二種類のフォークである。一つは普通に人指し指と中指の間に挟むものであり、もう一つがさらに深く挟み、人差し指と親指で円を作る握り方である。後者のフォークは、野茂以外に投げている者はいない、という。
 
 このフォークと剛速球とのコンビネーションで日本では4年連続奪三振王、大リーグでも2度の奪三振王に輝き、積み重ねた奪三振数は、実に3122個にのぼる。これは、日本プロ野球記録として換算すると歴代4位にあたる成績である。


 H大リーグ7球団を渡り歩く

 野茂は、1995年にドジャース入団後、1998年にメッツ、1999年にブリュワーズ、2000年にはタイガース、2001年にはレッドソックスに移っている。2002年には再びドジャースへ戻った。そして、2005年にはメジャー6球団目のデビルレイズに移り、2008年は7球団目のロイヤルズと契約した。近鉄から数えれば、プロ8球団目を渡り歩いていることになる。
 日本ではトレードと言えば、暗いイメージが付きまとうが、大リーグでは戦力を整えるためにシーズン中でも頻繁に行われており、一流選手がトレードで球団を移るというのは日常茶飯事である。
 野茂は、最後のロイヤルズでこそ活躍できなかったものの、他の7球団ではどこに所属していたときも常にエース級として投げ続けた。


 I大リーグ2度目のノーヒットノーラン

 2001年4月4日、ボルチモアのカムデンヤーズ球場が試合開始1時間半前に突然、停電となり、オリオールズ×レッドソックスの試合予定の午後7時5分になっても、試合ができない状態となった。
 レッドソックスの先発は、この年初登板となる野茂だった。
 試合が始まったのは試合開始予定の43分後。オープン戦不調だった野茂は、別人のように速球の球威とフォークの切れが申し分なく、6回からは5連続三振を奪うなど、オリオールズ打線にヒットを許さない。
 9回1死後、ボーディックが二遊間の頭上を越えていく当たりを放ったが、セカンドのランシングが見事なダイビングキャッチ。
 最後の打者を浅いレフトフライに打ち取って、野茂は大リーグ2度目のノーヒットノーランを達成した。
 3−0という緊迫した試合内容で、野茂の球数は110球。四球を3つ与えただけで、2桁の11三振を奪った。
 両リーグでノーヒットノーランを達成した投手は、あのノーラン・ライアン以来で、通算4人目の快挙である。


 J独立リーグの球団を買収

 2002年3月19日、野茂が独立リーグのエルマイラ・パイオニアーズを買収、という衝撃的な発表をパイオニアーズがした。
 野茂英雄、伊良部秀輝、鈴木誠の3選手を中心とした日本人グループがパイオニアーズの球団株式の51%を買収し、実質上のオーナーとなったのである。もちろん、こうした現役選手の球団経営というのは極めて珍しいことである。
 野茂は、以前から日本人選手がアメリカで野球するチャンスを広げたい、との願望を持っていたようで、大リーグを目指す若い日本人選手には最高のニュースとなった。
 野茂は、自ら、パイオニアとして苦労に苦労を重ねて大リーグ入りを果たしただけに、球団買収という試みも野茂らしい斬新さに溢れている。


 KNOMOベースボールクラブ設立

 野茂は、新日鉄堺という社会人チームの出身である。このチームでフォークボールをマスターし、自らのスタイルを貫いて才能を伸ばしたことで、全国から注目される存在となり、日本プロ野球や大リーグへの道が開けてきた。
 しかし、野茂が大リーグ移籍後、日本では社会人野球が低迷期に入っており、野茂は、有能なアマチュア選手が野球を続けられる環境を作るため、2003年、自らがオーナーとなって大阪府堺市に「NOMOベースボールクラブ」を設立する。
 NOMOベースボールクラブは、2005年に都市対抗野球大会に出場し、全日本クラブ野球選手権では初優勝を飾っている。


 L日米通算200勝達成

 右肩故障のため、2004年のオフにドジャースを自由契約となった野茂は、デビルレイズのテストを受けてマイナー契約を結ぶ。
 またしてもゼロからの出発を余儀なくされた野茂だったが、開幕時にはメジャーでの先発ローテーションを勝ち取る。だが、故障明けということもあり、制球を乱すことが多かった野茂は、日米通算200勝を前にして苦しんだ。
 それでも、6月15日のブルワーズ戦に先発した野茂は、制球がさえ、7回を2失点に抑える好投を見せる。味方も野茂を援護して小刻みに点を加え、7回までに5点を奪った。5−3で勝ったデビルレイズの勝ち投手は野茂で、これが日米通算200勝目となった。内訳は、日本で78勝、メジャーで122勝である。
 



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