1919年1月6日、愛知県生まれ。投手。右投右打。セネタース(球団名:→翼→大洋→西鉄)→阪急。背番号18(セネタース→阪急)。中京商業時代には1937年夏の甲子園、1938年春のセンバツで優勝投手となる。法政大学に進んだもののプロ入りするため、大学を中退。セネタースへ入団した。
1年目の1939年にいきなり33勝19敗、防御率2.04という新人離れした成績を残し、2年目には33勝11敗、防御率0.93という成績で最優秀防御率に輝いた。そのうえ、打者としても打率.260で規定打席に達して9位に入った。
3年目には25勝12敗、防御率0.88で2年連続の最優秀防御率となった。
1942年には40勝17敗、防御率1.19、264奪三振で最多勝と最多奪三振の2冠に輝いた。シーズン19完封という日本記録も達成している。
1943年にもシーズン84試合制ながら25勝している。
しかし、第二次世界大戦の激化により、全盛期だった野口の活躍の場は奪われることとなる。
戦後の1946年にプロ野球が復活すると阪急に入団し、投手として13勝を挙げ、打者としても打率.298を残す。この年、打者として31試合連続安打という日本記録を樹立した。
1947年には24勝17敗を記録している。
1950年にも15勝を挙げたが、1952年、シーズン1勝に終わると現役を引退した。
1989年、殿堂入り。
テイクバックが小さく、軽く投げているように見えながら剛速球と正確なコントロールを持ち、並外れた体力で多くの記録を残した「鉄腕」投手である。シーズン30勝以上3回をはじめとする素晴らしい投手成績に隠れてはいるが、打者としても中軸として活躍した二刀流であった。
通算成績(実働12年):237勝139敗、防御率1.96(歴代2位)、1395奪三振。65完封(歴代6位)。最多勝1回(1942)最優秀防御率2回(1940・1941)最多奪三振1回(1942)
打率.248、9本塁打、830安打
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