新浦 壽夫
 1951年、東京都生まれ(静岡県育ち)。投手。左投左打。背番号40→28(巨人・大洋・ダイエー)→49(ヤクルト)。静岡商業高校定時制1年次終了後、普通科へ編入して1年次に夏の甲子園にエースとして出場。剛速球を武器に準優勝を収める。1969年、高校を中退して巨人へドラフト外で入団。
 故障して出遅れたものの、3年目の1971年に初めて1軍の試合に出場し、4勝を挙げる。
 1974年には7勝を挙げたものの、翌1975年には肝心な場面で打たれることが続き、2勝11敗と不振に陥った。
 しかし、1976年には50試合に登板し、11勝11敗5セーブ、防御率3.11という成績で長嶋巨人のリーグ初優勝に貢献する。
 1977年には11勝3敗9S、防御率2.32で最優秀防御率とセーブ王、最高勝率に輝き、長嶋巨人のリーグ二連覇の原動力となった。
 1978年には15勝7敗15S25SP、防御率2.81と自己最高の成績を残してセーブ王、最優秀救援投手、最優秀防御率のタイトルを獲得。1979年にも15勝を挙げ、223奪三振で最多奪三振のタイトルも手にした。
 しかし、肘を痛めた1980年以降、勝ち星が伸び悩み、1984年、元監督長嶋茂雄の勧めで両親の母国韓国のプロ野球チーム三星(サムソン)ライオンズへ移籍する。
 三星では1年目から16勝10敗、防御率2.27の成績を残すと、2年目の1985年には糖尿病を患ったものの何と25勝6敗という驚異的な成績で最多勝を獲得する。
 1986年にも13勝を挙げると、今度は日本の大洋に移籍。11勝を挙げる活躍を見せてカムバック賞を受賞する。翌年にも10勝し、大洋のエースとなった。
 1992年にダイエーに移籍し、その年、さらにヤクルトに移籍したものの故障の影響でシーズン1勝に終わり、現役を引退した。

 左の本格派として巨人では剛速球を武器にエースとなり、後年は変化球を駆使する軟投派として韓国や大洋などで病気と闘いながらエースとして活躍した。巨人時代、第一期長嶋巨人の初優勝と韓国プロ野球の草創期に貢献した功績は大きい。

通算成績(日本:プロ21年、実働19年):116勝123敗39S、防御率3.45、1706奪三振 最優秀防御率2回(1977、1988)最多奪三振1回(1979)最高勝率1回(1977)最優秀救援投手1回(1978)セーブ王2回(1977、1978)ベストナイン1回(1978)
(韓国:実働3年)54勝20敗3S、防御率2.53、322奪三振 最多勝(1985)
 プロ通算170勝143敗42S、2028奪三振
数々の伝説

 @夏の甲子園で準優勝投手

 1968年、1年生エース新浦のいた静岡商は、第50回の記念大会となった夏の甲子園に出場する。剛速球投手として話題になった新浦は、初戦の伊香(滋賀県)戦で4−0と完封すると浜田(島根県)を4−1、高松商(香川県)を14−0、市秋田(秋田県)を5−1、準決勝の倉敷工(岡山県)を2−0と圧倒的な強さで快進撃を続けた。
 決勝の興国(大阪府)戦でも新浦は、好投し、5回に1点を失ったもののそれ以外の失点は許さなかった。しかし、静岡商は、興国の投手を打ち崩すことができず、0−1で敗れ、準優勝に終わった。
 全国の注目を集めた新浦は、この年の秋、早くもプロ野球球団の新浦争奪戦に巻き込まれることとなる。


 Aドラフト外入団がルール改正のきっかけ

 新浦は、日本生まれの日本育ちである。だが、父母が在日韓国人の新浦は、当時、韓国籍だった。
 当時、日本のドラフトは、外国籍の選手は、すべてドラフト会議からは外れる規定になっていた。
 そのため、プロ野球球団の新浦争奪戦は、熾烈を極める。日本の6球団が獲得に乗り出し、大リーグのサンフランシスコ・ジャイアンツからも獲得の動きがあったという。
 その中で新浦を獲得したのは、球界の盟主とも言える巨人だった。 
 この熾烈な新浦争奪戦は、物議を醸した。生まれてからずっと日本に住んでいる新浦をドラフトにかけることができないというのは、おかしいのではないかと。
 こうした論争をきっかけに野球協約が改正される。日本で一定の教育期間を満たせば、日本人選手として扱えるようになったのである。

 入団前から世間を賑わし、甲子園準優勝投手として鳴り物入りで巨人に入団した新浦だったが、プロ生活では肩と肘の故障で出遅れる。新浦が1軍の試合に出場するのは入団3年目のことである。


 Bピッチャー新浦

 「ピッチャー新浦!」というアナウンスが球場内に響くと巨人ファンは、大きなブーイングを起こした。1975年のことである。
 1974年に巨人は、V10を逃し、V9の立役者だった長嶋茂雄は監督となった。その1年目に巨人は、予想外の低迷をしていたのである。
 そんな状況で負けても負けても長嶋監督が起用したのが新浦だった。
 入団当初の故障は癒えた新浦だったが、コントロールが安定せず、四球を出しては打ち込まれる場面が目立ったのだ。
 だが、長嶋は、将来を見据えて新浦の素質に大きな期待を寄せていた。長嶋監督が世間の批判を一身に受けながら起用し続けた新浦は、この年、37試合に登板して2勝11敗と大きく負け越す。巨人も球団史上初の最下位に沈んだ。
 しかし、これが翌年以降、実を結ぶことになるのである。


 C長嶋巨人の初優勝に貢献

 1976年、巨人は、前年と見違えるように首位争いを繰り広げる。その原動力となったのが新浦の成長である。
 新浦は、往年の大投手杉下茂から投球術を伝授されていたのだ。新浦は、監督の期待に応えて先発に抑えにフル回転し、11勝11敗5S、防御率3.11と初の2桁勝利を挙げたのである。登板した試合は50試合に及んだ。
 その結果、巨人は、前年の最下位から一気にリーグ優勝を果たすという離れ業を演じることになる。これが長嶋巨人としての初優勝だった。
 長嶋巨人は、翌年も快調に首位を独走し、80勝46敗でリーグ2連覇を果たす。2位に15ゲーム差をつける圧勝だった。新浦は、この年、11勝3敗9セーブ、防御率2.32で最優秀防御率と最高勝率、セーブ王に輝き、セリーグを代表する投手となった。


 D3年連続タイトル獲得

 長嶋監督の積極的な起用によりエースに成長した新浦は、1977年に11勝3敗9セーブ、防御率2.32で最優秀防御率、最高勝率、セーブ王のタイトルを獲得し、長嶋巨人をリーグ優勝に導く。それでも、シーズンMVPはさすがに50本塁打、124打点で2冠王の王貞治だった。
 新浦は、1978年にはリーグ最多の63試合に登板して15勝7敗15セーブ25セーブポイント、防御率2.81の成績を残し、最優秀救援投手、セーブ王、最優秀防御率のタイトルを手にする。
 さらに1979年にも223奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した新浦は、3年連続でタイトル獲得を達成したのである。1970年代後半の巨人は、先発でも抑えでもエースは新浦だった。


 E韓国プロ野球へ移籍

 新浦は、1979年まで巨人のエースとして活躍したものの、1980年に肘を故障してからは中継ぎでの起用が増え、思うように勝ち星が伸びなかった。
 既に監督を辞めていた長嶋茂雄は、そんな新浦に1983年オフ、韓国プロ野球への移籍を勧め、日本の野球を韓国に伝えてくるよう忠告する。
 韓国プロ野球は、1982年に創設されており、歴史は浅い。韓国在住経験さえなかった新浦だったが、韓国プロ野球球団、三星(サムソン)ライオンズと3年契約を結ぶ。
 日本野球の伝道師として韓国に渡った新浦は、三星で「金日融」という韓国名の投手として新しい野球生活を始める。しかし、日本生まれ日本育ちのため、韓国語がほとんど話せなかった新浦は、2試合目から4連続敗戦を喫すると、球団内やマスコミ、ファンらから民族差別を含んだバッシングを受ける。
 それでも、新浦は、先発投手として1年間活躍を続け、16勝10敗3S、防御率2.27という好成績を残して見返したのである。


 F韓国プロ野球で最多勝

 慣れない韓国の地でファンからは「半日本人」などと野次られ、韓国の食生活にも馴染めなかった新浦は、極度のストレスに襲われ、韓国2年目には糖尿病にもかかってしまう。
 それでも、新浦は、韓国で好きな野球を続けた。糖尿病と闘いながら好投に好投を重ねた結果、25勝6敗という驚異的な数字が残った。25勝は、その年の最多勝だった。
 3年目にも13勝4敗と活躍したものの、新浦は、それ以上の契約延長はせず、日本へ帰国する。
 だが、3年間で通算54勝という圧倒的な実績を残した新浦は、日本のプロ野球を韓国に伝え、韓国プロ野球の発展に大きな貢献をしたのである。


 Gカムバック賞

 韓国球界のエースとして3年間活躍した新浦は、1987年、日本球界に復帰を決める。このとき、多くの球団が獲得に動いたという。
 そんな中、大洋が新浦を獲得する。新浦の投球スタイルは、剛速球で押す巨人時代とはうって変わり、カーブやチェンジアップを多投して打者を幻惑する軟投派となっていた。
 新浦は、帰国1年目から先発投手としてエース級の働きをする。そして、シーズン11勝12敗という成績を残し、カムバック賞に輝いたのである。





(2006年4月作成)

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