西沢 道夫
 1921年9月、東京都生まれ。右投右打。投手→内野手。背番号5・17(名古屋)→23(ゴールドスター)→15(中日)。
 第二日野高等小学校から名古屋軍のテストを受けて契約。14歳だったため、最初は養成選手としての契約だった。
 1938年に春季3勝、秋季3勝を挙げて頭角を現し、1940年には20勝9敗、防御率1.92という好成績を残した。
 1942年5月には大洋の野口二郎と投げ合い、延長28回を完投するという世界記録を打ち立てた。7月には阪急戦でノーヒットノーランも達成。しかし、意外にもその年は7勝に終わっている。
 1943年には9勝6敗、防御率1.87を残した。その後、第二次世界大戦に出征。
 戦後の1946年、中部日本で5勝8敗、防御率4.65と低迷し、その年の途中にゴールドスターに移籍。
 既に肩を壊していた西沢は、ゴールドスターでは打撃センスを認められて野手に転向。一塁手として活躍を始める。
 1948年に16本塁打を放ち、中日に再び戻った1949年には打率.309、37本塁打、114打点という素晴らしい活躍を見せた。この年には日本記録となる11試合連続試合打点も記録している。
 1950年には打率.311、46本塁打、135打点で球界を代表する打者に成長した。
 1952年には、打率.353、20本塁打、98打点で首位打者と打点王の2冠王に輝いている。
 そして、1954年には打率.340、16本塁打、80打点の活躍で中日のリーグ優勝に貢献し、日本シリーズも制している。
 1958年、打率.275で打率リーグ8位ながらその年限りで引退し、1959年3月にはその年から初めて導入された引退試合によってバットを置いた。
 1977年、野球殿堂入りを果たしている。

 戦前は、右の本格派速球投手として活躍し、戦後は、大きな体を生かした豪快なスイングで中心打者として活躍した両刀プレーヤーである。高く舞い上がる本塁打が多く、その放物線は非常に美しかったという。

 通算成績(実働20年):「打撃成績」打率.286、212本塁打、940打点、1717安打。首位打者1回(1952年)打点王1回(1952)ベストナイン3回(1950・1952・1954)
 「投手成績」60勝65敗、防御率2.23。ノーヒットノーラン1回(1942)


数々の伝説


 @15歳でプロ入り

 1935年10月、第二日野高等小学校2年生で14歳という若さだった西沢は、名古屋軍のテストを受ける。自ら望んだというよりは兄の勧めだった。しかも、それまで西沢は硬球をほとんど投げたことがなかったという。
 しかし、テストは、20球投げたところで簡単に合格。名古屋の養成選手となった。養成選手とは、プロでやっていけるまで育てるため、もしくは何らかの条件を満たせなくてプロ契約が無理なため、一時的に球団が職員として雇った選手である。西沢は、プロ野球史上、記念すべき養成選手第一号となった。
 西沢は、そのまま15歳でプロの名古屋へ入団。1937年秋のシーズンに1軍デビューを果たした。
 2年目の1938年には16歳にして春3勝、秋3勝を挙げて早くも頭角を現している。
 西沢の成功の後、プロ契約できない選手を養成選手として確保しておく球団が増えていった。


 A延長28回を1人で投げきる

 1942年5月24日、西沢は、大洋戦に先発した。その日、後楽園球場では朝日×名古屋戦、巨人×大洋戦、大洋×名古屋戦の3試合が行われることになっていて、西沢の先発する大洋戦は最後を飾ることになっていた。
 試合開始は午後3時過ぎ。
 9回表までスムーズに進んだその試合は、西沢が6回、7回に2点ずつ失って逆転されたため、9回表を終わった時点で大洋が4−2とリードしていて、名古屋は敗北濃厚だった。
 しかし、ここから試合は大きく動く。9回裏の名古屋の攻撃で、2死1塁から古川清蔵が起死回生の2ランホームランを放って一気に試合を4−4の振り出しに戻したのである。
 それが伝説の始まりだった。緊迫した投手戦が延々と続いていく。
 ただ、その日は、春季シーズン最後の日だった。当時は、シーズンが春季・秋季に分かれていたのだ。
 そのため、まだ外は明るかったものの、表彰式を行うために試合は延長28回で打ち切られた。4−4の同点のままである。もし打ち切られなければ、延長何回まで続いていたかは想像がつかない。
 また、この試合は、意外なことに3時間47分という短時間で終わっている。両投手の投球リズムの良さ、無駄のなさを示していると言えよう。
 西沢がその試合で投げた球数は311、被安打15、6四死球という堂々たる内容だった。
「勝負は、決着がつくまでやるべきだ」という軍部の指令で簡単には引き分けにできなかった軍国主義日本。でも、軍部の誰もがまさか延長28回までやって決着のつかない試合が出てくるなんて想像もしなかったにちがいない。
 この延長28回という記録は、大リーグ記録の延長26回を抜く世界記録となった。


 Bノーヒットノーラン達成

 1942年7月18日、西沢は、阪急戦に先発して2−0で完封した。奪三振はわずかに2、対して四死球は3。しかし、被安打は0。ノーヒットノーランだった。
 この年は、延長28回完投、ノーヒットノーランという2つの快記録を作りながら意外なことにシーズン7勝で終わっている。しかも、ノーヒットノーランをやってのける3日前の7月15日には大洋戦に先発して1死もとれずにノックアウトされていたという伝説も残っている。
 西沢は、1940年に20勝9敗、防御率1.92を記録して名古屋のエースにまで登り詰め、通算60勝を挙げた。しかし、戦争中に肩を壊した西沢は、戦後、打者として主砲に登り詰めるのである。


 Cブンちゃん

 西沢には「ブンちゃん」という愛称がある。全く本名からは見当がつかない。それもそのはずで、「ブンちゃん」の由来は、大相撲の世界で活躍した出羽ヶ嶽文治郎という関取に西沢が良く似ていたからだ。
 出羽ヶ嶽文治郎は、大正の後半から昭和の初頭にかけて人気を博した力士で、最高位は関脇まで行った。巨体を生かした鯖折りで観客を沸かせたり、盛り蕎麦を32枚以上食べたという伝説も残している。
 そんな出羽ヶ嶽は、2メートルを超える長身だったという。西沢も、身長は182センチ。当時の野球界でも目立つ長身選手だった。


 D打者に転向して2冠王

 1946年、西沢は、中部日本で5勝8敗、防御率4.65と今ひとつ調子が出ず、移籍したゴールドスターで打者に転向する。監督坪内道則に打者としての素質を評価されたからである。
 既に戦前から打者としての素質は認められていたのだろう。1943年には外野手としての出場もある。10月31日にはチーム唯一の安打を放って藤本英雄のノーヒットノーランを防ぐ活躍を見せた。
 打者に転向後は、徐々にパンチ力と正確さを身に付けて、中日に戻った1949年には既に主力打者として活躍できるまでになっていた。
 そして、1952年には打率.353、20本塁打、98打点という好記録で首位打者と打点王の2冠王に輝いたのである。


 E11試合連続打点

 西沢は、1949年5月に11試合連続打点という記録を打ち立てる。これは、同年開幕直後に川上哲治が樹立した10試合連続打点を抜いて日本記録となった。
 この記録は、またすぐに破られるかと思われたが、以後も長く続く。1974年に長池徳二が並び、1977年にはレロン・リーが並ぶのだが、更新はならなかった。
 更新したのは、阪神のランディ・バースだった。1986年に7試合連続本塁打を放つとその勢いで続く6試合も打ちまくり、13試合連続打点という記録を作ったのである。


 Fシーズン満塁本塁打5本 

 1950年、西沢は、シーズン満塁本塁打5本という記録を残している。この年、西沢は、4月18日の阪神戦、5月25日の西日本戦、6月11日の松竹戦と3ヶ月連続で満塁本塁打を放った。それから3ヶ月間、満塁本塁打は出なかったが、10月3日の巨人戦で4本目を放つ。そして、ペナント終了が迫った11月8日の広島戦で5本目が出た。
 この記録は、現在でも日本記録となっている。
 この5本の満塁本塁打が効いて、西沢は、通算満塁本塁打9本という新記録を樹立している。この記録は、1970年に野村克也が10本目を放って破るまで続いた。
 西沢の本塁打は、長身を生かした柔らかいスイングですくい上げると、高々と舞い上がって大きな放物線を描く美しい打球が多かったという。
 

 G引退試合と永久欠番

 1959年3月15日の南海戦。この日は西沢の引退試合だった。
 この年、初めてプロ野球に引退試合が導入される。そして、引退試合が認められた選手は、西沢と千葉茂、藤村富美男の3人だった。いずれも、一時代を築いた名選手である。
 西沢は、自らの引退試合に先発で出場し、三振に終わっている。
 引退した西沢は、中日のコーチ、監督を務める。そして、監督を退任した後、西沢の背番号15は長年の功績を認められて永久欠番となった。





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