西崎 幸広
 1964年4月、滋賀県生まれ。投手。右投右打。背番号21(日本ハム→西武)。瀬田工高から愛知工大に進み、愛知大学野球で頭角を現して数々の記録を樹立。1987年にドラフト1位で日本ハム入り。
 いきなり1年目から15勝7敗、防御率2.89の好成績を挙げたものの、同じ年の新人阿波野秀幸も15勝を記録して新人王を獲得したため、西崎は新人王を逃した。
 2年目にも15勝11敗、防御率2.50と好成績を続け、最多勝のタイトルを獲得した。
 3年目にも16勝を挙げて日本ハムの不動のエースとなった。
 1995年7月5日の西武戦では史上60人目となるノーヒットノーランを達成した。日本ハムでは通算7度の2桁勝利を達成している。
 しかし、1997年は相次ぐ故障のため3勝に終わり、西武に放出された。
 1998年に西武で自身初のリーグ優勝を経験。1999年には西武の守護神として復活を果たし、2勝1敗20セーブを残した。
 ところが、その後も内転筋の故障に泣かされて2001年限りで現役を引退した。

 流れるように美しい投球フォームから繰り出される直球やカーブ、フォークは球筋も美しく、整った風貌とあいまって多くのファンを魅了した。

 通算成績(実働15年):127勝102敗、防御率3.25。1573奪三振。最多勝1回(1988)ベストナイン1回(1988)ゴールデングラブ賞2回(1988・1996)ノーヒットノーラン1回(1995)


数々の伝説


 @愛知大学野球で多くの記録を残す

 西崎は、高校では注目を集めることはなかったが、愛工大入学後、その才能が開花。
 1986年春の名古屋学院大学戦では1試合に23個もの三振を奪って愛知大学野球リーグの新記録を樹立した。
 そのシーズンは、合計95奪三振でシーズン最多奪三振の新記録を作った。
 そして、愛工大での通算最多勝利も37勝を記録し、これもそれまでの通算最多勝利記録を塗り替えている。
 そのため、西崎は、愛知大学野球史上最高の投手としてプロ野球のドラフトで注目を集めることになる。
 

 Aトレンディエース

 1987年、日本ハムに入団した西崎は、開幕当初から先発ローテーションに定着し、順風に勝ち星を積み重ねた。
 甘いマスクと美しいフォームを持つ西崎は、同じ年に近鉄に入団した阿波野秀幸とパリーグ人気を二分し、社会現象を巻き起こした。西崎にはトレンディエースという称号が与えられ、日本ハムの試合には多くの女性ファンが駆けつけた。
 実力の方でもファンを魅了し、阿波野と激しい新人王争いを繰り広げた。西崎は15勝7敗、防御率2.89を残したものの、阿波野も15勝12敗、防御率2.88の成績で奪三振王のタイトルを獲得した。新人王は、僅差で阿波野が選出されている。
 ただ阿波野が最初の4年間しかエースとして活躍できなかったのに対し、西崎は10年間に渡って日本ハムのエースに君臨した。


 Bやり直しのノーヒットノーラン

 1995年4月22日、西武戦に先発した西崎は、好投し、7回終了時点まで西武打線を無安打に抑えていた。しかし、8回にデストラーデの放った打球をセンターが見失い、3塁打となってしまったことでノーヒットノーランを逃す。
 それから2ヶ月余りが過ぎた7月5日、西崎は、東京ドームでの西武戦に先発する。西崎は、12奪三振を奪う好投を見せて9回を無安打で投げきり、ついに史上60人目となるノーヒットノーランを達成した。
 

 C突然の西武移籍

 1997年オフ、日本ハムは、金石昭人投手の戦力外通告を発表し、西崎も戦力外として西武へ放出した。
 西崎は、1996年には14勝を挙げる活躍を見せており、1997年には腰や首の故障に泣かされて3勝に終わったとはいえ、日本ハムを長年支えてきた大エースであった。そのため、西崎の放出は、世間に大きな衝撃を与えた。


 D西武で守護神として復活

 西武移籍1年目の1998年、西崎は、首・脇腹・内転筋を相次いで傷めてわずかシーズン1勝に終わる。傍目にも復への道のりは困難かと思われた。しかし、その年の日本シリーズでリリーフで復活の糸口をつかんだ西崎は、1999年にリリーフへ転向する。
 この転向は成功した。西崎は2勝1敗、20セーブを挙げて見事に復活を遂げた。
 しかし、その翌年から再び故障に泣かされ、残念ながら守護神として定着することはできなかった。
 




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