1910年11月、三重県生まれ。投手。右投右打。背番号19。宇治山田中学から実業団の愛知電鉄(現在の名鉄)に進み、2年後に関西大学に入学する。関西大学ではエースとして1932年春から1936年秋にかけて関西六大学リーグ4連覇を2度達成する。
1937年に大阪タイガースに入団し、春に9勝3敗、防御率2.24の成績で一躍エースになると、秋には15勝3敗、防御率1.48の圧倒的な成績でタイガースの秋優勝に貢献する。秋季は、最多勝と最優秀防御率の2冠に輝いている。
春優勝の巨人と対戦した優勝決定戦では、3勝を挙げて4勝2敗での日本一に大きく貢献する。
1938年春には11勝4敗、防御率1.52で2季連続の最優秀防御率に輝き、大阪の春優勝に貢献する。
秋にも9勝2敗と活躍したものの、秋優勝は巨人に譲る。しかし、巨人との優勝決定戦では初戦に先発して勝利を収め、タイガースの4連勝での日本一に大きく貢献する。
1939年は、11勝9敗、防御率2.41とまずまずの成績を残したものの、石本監督との確執と故障により退団する。
1940年は、満州の新京電鉄でプレーしたが、1年で退団する。
1944年3月、第二次世界大戦への召集を受け、1945年4月3日にフィリピンで戦死した。
1977年、野球殿堂入り。
快速球とカーブを武器に絶妙のコントロールを駆使し、草創期のタイガースのエースとして、2年連続日本一に貢献した。酒仙投手の異名を持ち、前日に浴びるほど酒を飲んでも翌日は快投を見せた。
通算成績(実働3年):55勝21敗、防御率2.01、394奪三振。最多勝1回(1937秋)最優秀防御率2回(1937年秋、1938年春)
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