西本 聖
 1956年6月、愛媛県生まれ。投手。右投右打。背番号58・26(巨人)→25・24(中日)→52(オリックス)→90(巨人)。松山商業高校から1975年にドラフト外で巨人入り。
 1年目は1軍に上がれなかったものの、1976年にイースタンリーグで最多勝を獲得して1軍昇格。
 1977年に8勝5敗4セーブと先発・中継ぎでフル回転し、頭角を現した。
 1980年に14勝を挙げてエースに成長。翌年には18勝12敗、防御率2.58の好成績で沢村賞を受賞している。巨人もリーグ優勝を果たし、日本ハムとの日本シリーズも4勝2敗で制した。このシリーズで2勝を挙げた西本はシリーズMVPに選ばれている。
 1983年には5完封を含む15勝10敗という成績を残して巨人のリーグ優勝に大きく貢献している。1987年にも8勝を挙げてチームのリーグ優勝に貢献した。
 しかし、もう1人のエース江川卓が引退していなくなった1988年に不振に陥り、4勝に終わると1989年、中尾孝義とのトレードで中日に移籍。いきなり20勝6敗、防御率2.44という自己最高の成績を残して最多勝を獲得した。カムバック賞も受賞し、最高勝率のタイトルも手にしている。
 中日でエースとして活躍していた1991年、椎間板ヘルニアで戦線離脱し、大手術を受ける。
 1992年に復帰して勝利を挙げたものの、以前のような活躍はできず、1993年にオリックスに移籍。オリックスでは先発として5勝を挙げる。
 しかし、西本は自ら自由契約を申請し、巨人のテストを受けて1994年は巨人へ復帰。その年限りで現役を引退した。

 沢村栄治のように足を高々と上げて投げ込む球は、絶妙にコントロールされて打者のバットの芯を外した。宝刀のシュートは、右打者の懐深くに鋭く食い込んでいく切れ味があった。また、守備にも定評があり、ゴールデングラブ賞の常連となった。

通算成績(現役20年・実働18年):165勝128敗17S、防御率3.20、1239奪三振。最多勝1回(1989)最高勝率1回(1989)沢村賞1回(1981)カムバック賞1回(1989)ゴールデングラブ賞8回(1979〜1985・1989)

数々の伝説


 @ドラフト外で入団した努力の人

 西本は、高校野球の名門松山商業にいたものの、甲子園出場経験はなく、プロ球団からはそれほど注目される投手ではなかった。だが、高校時代、西本らしさを端的に表わす逸話が残っている。3年生の夏、県大会の準々決勝で敗れた後、同級生たちが練習から解放されて遊び回るのを尻目に、西本は敗れた翌日から普通に練習を始めた、というのだ。
 西本は、巨人からドラフト指名を約束されたものの、指名から漏れ、ドラフト外という形で巨人に入団することになる。
 このとき、巨人は、西本の守備力・打撃力に素質を感じ、野手として育てるつもりで獲得を決めたようである。
 ところが、ピッチング練習をさせてみるとシュートがあまりにも素晴らしかったため、ひとまず投手をさせてみることになったという。
 1年目は、1軍での登板はなく、2年目も1試合にしか登板していない。だが、西本の練習量は、巨人の選手の中でも群を抜いていた。人付き合いを一切断り、電車ではいつもつま先だけで立ち、ランニングでは他人以上の距離を走るためにグラウンドの一番外側を走り、集合練習が終わってからもただ1人練習を続ける、という徹底ぶりだった。
 この当時、西本は、首脳陣が1軍で使えないとの判断から打撃投手をさせられていた。腐ってもおかしくないところで、西本は、全力で投げた。宝刀のシュートも惜しみなく駆使し、1軍の選手でもほとんどボールが前に飛ばなかった、という。そういうところから西本は、少しずつ首脳陣の目にとまるようになっていく。
 2年目にイースタンリーグで12勝を挙げて最多勝を獲得したことで3年目の1977年から1軍に定着。8勝5敗4セーブを記録した。
 この年の5月に父が死亡したとき、西本は自らの1軍登板のチャンスを生かすために、父の葬儀には出ずに試合で投げ続けることを球団に直訴したことは有名である。
 1980年にはついに14勝を挙げてローテーション投手としての地位を確実なものにした。


 A江川との2本柱

 西本は、1980年に14勝をマークして巨人のローテーション投手となった。この前年に新人として巨人に入ってきたのが、怪物江川卓である。
 西本は、江川がドラフトで話題になった頃から「入ってこないでくれ」と願い続けていたという。それは、江川が入ってきたら確実にローテーションの一角が埋められてしまうため、危機を感じていたからだったという。
 しかし、並外れた練習量でドラフト外からはい上がってきた西本は、その後もローテーションを守り続けて6年連続2桁勝利を記録し、江川とともに巨人を支える強力な2本柱となっていった。


 B日本シリーズ29イニング連続無失点

 西本が初めて日本シリーズに出たのは1981年である。シーズンは18勝を挙げて沢村賞も受賞している。
 その勢いのまま、西本は、日本ハムとのシリーズ第2戦に先発して2安打1失点の好投で完投し、2−1で勝利投手になった。
 さらに第5戦でも西本は、13安打を浴びながらも日本ハム打線を無失点に抑え、9−0で完封勝利を挙げた。
 巨人は第6戦にも勝って4勝2敗で日本一となり、2勝無敗、防御率0.50という素晴らしい成績を残した西本はシリーズMVPを受賞した。
 西本は、次の1983年の西武との日本シリーズでも好投を見せ、連続無失点記録を伸ばすことになる。1983年の第2戦で先発した西本は、4−0で完封勝利を挙げて1981年のシリーズに続いて連続完封を果たした。
 第5戦では4回に田淵に本塁打を浴びて、ついに1981年の第2戦から続いていた連続無失点記録は29イニングで途絶えたものの、9回を2失点で勝利投手となっている。29イニング連続無失点という記録は、パリーグを制覇したチーム相手の無失点記録だけに価値は高いと言えよう。


 Cゴールデングラブ賞8回

 西本は、入団時、守備力を買われていたという逸話がある通り、打球の処理の上手さは際立っていた。それは、人一倍の練習量とともに、投球練習が終わってから内野での守備練習を欠かさずにやっていたためでもあった。当時は、投手が投球練習後に内野でノックを受けるようなことはタブー視されていた。そのため、西本を批判する首脳陣やマスコミは多かったという。
 しかし、西本は、「はみだし者」と言われながらも自らのやり方を曲げずにやり続けた。
 それは、1979年から7年連続ゴールデングラブ賞で実を結ぶ。1989年にも受賞し、8回受賞という日本新記録を樹立した。
 そして、今では常識的に投手の内野守備練習は行われるようになり、西本はその先駆者という存在になったのである。
 

 D沢村賞獲得

 西本が球界を代表する投手となったことを印象付けたのは1981年の活躍だろう。18勝12敗で防御率が2.58。エースとして申し分ない働きを見せ、巨人の4年ぶりの優勝に大きく貢献したからである。
 この年は、巨人のもう一人のエース江川卓が20勝6敗、防御率2.29という成績を残していた。投手としてのタイトルを総なめにしていたのは江川だった。
 それでも、西本は、江川と同等の評価を受け、江川がシーズンMVPに選ばれたのに対し、西本は沢村賞に選ばれている。
 西本は、足を高く空に向けてまっすぐ跳ね上げる投球フォームで、沢村栄治を彷彿とさせるとの証言もあり、西本に最もふさわしい賞であった。


 E宝刀シュート

 西本の直球は、若い頃から右打者の内角に投げるときは自然にシュート回転していったのだという。プロでその球が認められるようになるにつれ、西本は、意識してシュートを磨くようになり、独特の鋭いシュートになっていく。
 このシュートは右打者の懐深くに食い込んで行き、打球を詰まらせることになった。西本は、通算で2677回を投げているが奪三振が1239と少なく、被安打も2724と多かったにもかかわらず、肝心なところではシュートで凡打の山を築き、プロ野球史上屈指のシュート投手となったのである。


 Fカムバック

 西本は、1988年に不振に陥る。コーチ陣との確執や、最大のライバルである江川卓が引退してしまったことなどが原因として語られているが、それまでエースとして活躍してきた西本がこの年は4勝しか挙げられなかった。ローテーションから外され、屈辱的な2軍落ちも味わった。
 巨人は、その年のオフ、中日のキャッチャー中尾孝義を獲得するために、西本の放出を決める。以前から西本に目を着けていた中日の星野仙一監督が獲得に動いたのだった。
 西本は、中日で大きく甦る。何と20勝6敗、防御率2.44という自己最高の成績を残したのである。20勝は、その年の最多勝だった。西本は、文句なしでカムバック賞に選ばれたのである。


 G不死鳥のように

 中日に移籍してエースとして活躍していた西本に1991年、突如試練が降りかかる。椎間板ヘルニアで投げられなくなってしまったのだ。
 長年の力投がたたって、西本の背骨の関節は大きく傷んでいたのである。
 そのままでは投手を続けることは不可能だが、日常生活ならできるという診断だった。このとき西本は、投手生活を続けるために手術を決断する。これは、もし失敗すれば、車椅子での生活を強いられる大手術だった。
 手術は無事成功し、西本は1992年に復帰を果たす。復帰後初勝利のときの涙は、ファンの感動を誘っている。


 H最後は長嶋監督の下で引退

 1994年、西本は、オリックスに自ら自由契約を申し入れて、巨人の入団テストを受ける。長嶋茂雄監督に育ててもらった恩を常に感じていた西本は、最後は長嶋監督の下で長嶋監督のために働き、現役を終えたかったのだ。
 西本は、見事にテストに合格して巨人復帰を果たす。
 しかし、その年の巨人は、投手力が充実していたため、西本が1軍のマウンドに立つことはなかった。西本は、その年限りで現役を引退。
 長嶋監督の下で現役生活を開始して、長嶋監督の下で現役生活を終えることができたのである。



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