成田 文男
 1946年10月、東京都生まれ。右投右打。投手。背番号46→18(ロッテ)→13(日本ハム)。修徳高校3年時の1964年に夏の甲子園に出場して初戦敗退。
 1965年に東京オリオンズ(現ロッテ)に入団する。1年目は1試合の登板に終わるものの、2年目には先発と中継ぎで8勝7敗の成績を残す。
 3年目の1967年には14勝16敗、防御率2.11の成績を残し、1968年には20勝11敗、防御率2.91の好成績で主力投手に成長する。
 1969年には22勝13敗、防御率2.73の成績を残し、9完封はリーグ最多だった。この年の8月にはノーヒットノーランを達成している。
 1970年には25勝8敗、防御率3.21で最多勝に輝き、ロッテをリーグ優勝に導く。
 1973年には21勝10敗、防御率2.63、178奪三振の好成績で2度目の最多勝と初の最多奪三振を記録し、4度目のシーズン20勝も達成する。この年にはベストナインとダイヤモンドグラブ賞にも輝いている。
 1974年には9勝10敗3セーブの成績でロッテのリーグ優勝に貢献する。日本シリーズでは敗戦投手となったものの、ロッテは、4勝2敗で中日を破って日本一に輝く。
 1975年に15勝、1976年には10勝を挙げたが、1977年には肩を壊して1勝に終わり、1978年も2勝にどどまって、オフに日本ハムへ移籍する。
 日本ハムでは主に中継ぎとして活躍し、1981年には先発もこなしながら4勝を挙げて日本ハムのリーグ優勝に貢献したが、1982年は2試合の登板に終わり、現役を引退した。

 切れのある直球と同じ軌道で鋭く曲がる高速スライダーを武器にロッテの大黒柱として2度の優勝に貢献した「下町のエース」である。そのスライダーの切れ味には大リーガーからも注目され、史上最高のスライダー投手との呼び声も高い。

通算成績(実働17年)175勝129敗8セーブ、防御率3.20、1657奪三振。最多勝2回(1970・1973)最多奪三振1回(1973)ベストナイン1回(1973)ダイヤモンドグラブ賞1回(1973)ノーヒットノーラン1回(1969)


数々の伝説


 @ビートたけしと中学の同級生

 成田は、東京都足立区出身で、下町育ちだった。そして、第四中学校ではエースで主力打者として活躍するが、同級生で同じ野球部にいたのがビートたけしだった。
 その野球部で、たけしは、成田の剛速球に度肝を抜かれ、野球選手になることをあきらめている。成田の実力は、当時から突出しており、成田が先発で相手打線を抑えて、成田が打者として1人で打って勝つ試合も多かったという。


 A高速スライダー

 成田のスライダーは、直球と同じスピードで、同じ軌道で来て、打者の手元で鋭く曲がるという高速スライダーだった。その球速は、軽く140キロを超えていたと言われ、高速でありながら巧みにコーナーへコントロールできる技術も持ち合わせていた。
 そのため、8年連続を含む9回のシーズン100奪三振以上を記録しており、1967年から1970年までは4年連続で170奪三振以上を挙げ、1973年には178奪三振でリーグ最多奪三振に輝いている。
 現在でも成田が史上最高のスライダーを投げた投手との呼び声も高い。


 B大リーグの投手が手本にして300勝達成

 1968年、大リーグのカージナルスが日米野球のために来日した。そのとき、若手投手としてメンバーに名を連ねていたのがスティーブ・カールトンだった。
 カールトンは、成田の投球に注目し、成田が投げる高速スライダーに目を奪われた。その後、カールトンは、この高速スライダー習得に励み、成田と同じスライダーを投げられるようになる。そして、カールトンは、高速スライダーを最大の武器として大リーグを代表する投手となり、通算329勝の大記録を達成することになる。


 Cノーヒットノーラン達成

 1969年8月16日、成田は、阪急戦に先発する。成田は、当時、エースとして連投に次ぐ連投をこなしており、この試合でも肩が痛くて試合に集中できていなかったという。
 しかし、投球内容は、完璧で、強打の阪急打線に安打を許さず、虎の子の1点を守って9回を投げ切った。10奪三振、3四死球という投球内容でのノーヒットノーラン達成だった。


 Dサンフランシスコ・ジャイアンツからの誘い
 
 1971年、成田は、アメリカのアリゾナキャンプ中に、アメリカ大リーグのサンフランシスコ・ジャイアンツとの試合に先発した。
 そこで成田は、10回1失点の好投を見せ、大リーガーを震撼させる。サンフランシスコ・ジャイアンツは、成田の投球を高く評価し、成田に契約を持ちかけてきた。
 しかし、当時、日本人が大リーガーになる風潮がなかったため、成田は、即座に入団を断り、日本でプレーし続けることを決めた。


 E下町のエース

 成田は、下町である東京都足立区育ちであり、東京オリオンズが下町の荒川区に本拠地を置いていたこともあって、成田は、生粋の下町住民として、ファンから親しみを込めて「下町のエース」と呼ばれた。
 当時のパリーグは、セリーグに比べてあまりにも人気がなく、成田は、観客1000人ほどしかいない東京スタジアムで先発することもあった。しかし、そうやって黙々と自らの仕事をこなしていった結果、1970年に悲願のリーグ優勝を果たすことになる。


 F最多勝でリーグ優勝

 1970年、ロッテのエースとして2年連続20勝以上を記録していた成田は、この年も、好調を持続させ、25勝8敗、防御率3.21の好成績を残す。成田は、3年連続20勝以上という快挙を達成するともに、リーグ最多勝のタイトルも獲得した。
 この年のロッテは、打線ではアルトマン、ロペス、有藤通世らが活躍し、投手陣では成田、小山正明、木樽正明らが活躍して2位南海に10.5ゲーム差をつける圧勝でパリーグを制した。MVPこそ、21勝10敗、防御率2.53の成績を残した木樽将明に譲ったものの、MVP級の貢献だった。


 G満塁本塁打2本と3試合連続本塁打

 成田は、打者としての素質も卓越していた投手である。プロ2年目の1966年には打率.256の成績を残し、1969年には打率.191ながら115打数で5本塁打を放つパワーを見せている。
 また、1970年には打率.267、3本塁打、1973年には打率.288、1本塁打と打者顔負けの打撃成績を残している。 
 1971年5月30日東映戦では、投手として史上2人目の満塁本塁打を放ち、1972年6月9日の阪急戦でも満塁本塁打を放っている。投手として2本の満塁本塁打は、史上初の快挙だった。
 また、1969年には3試合連続本塁打を放っており、これも、日本記録となった。
 1975年以降は、パリーグが指名打者制をとったため、打席に立つことはなくなったが、1966年から1974年までの9年間で137安打、15本塁打を放つ活躍を見せた。


 H故障と復活

 1977年、成田は、肩を壊して不振に陥る。この年、1勝に終わった成田は、その後、肘も痛めて登板機会を失っていく。そして、1軍登板なしとなった1979年のオフに日本ハムへ移籍する。
 それでも、成田は、1980年に主に中継ぎ投手として復活すると、27試合に登板して2勝4敗3セーブ、防御率2.47とまずまずの成績を残す。
 翌年には先発もこなして4勝4敗、防御率2.49の成績で日本ハムのリーグ優勝にも貢献した。




(2011年9月作成)

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