中西 太 
 1933年4月香川県生まれ。右投右打。三塁手。背番号6。高松一高時代から怪童と呼ばれ、その剛打は全国に知れ渡っていた。
 1952年に西鉄に入団。1年目から打率.281、12本塁打の活躍で新人王を獲得。
 翌1953年には打率.314、36本塁打、86打点、36盗塁の活躍で本塁打王と打点王の2冠に輝いている。史上3人目となる3割30本30盗塁も達成した。
 以後、4年連続本塁打王を獲得し、日本を代表する打者になった。
 1954年には31本塁打で西鉄のリーグ優勝に大きく貢献。
 1955年には打率.332、35本塁打で首位打者と本塁打王の2冠、1956年には打率.325、29本塁打、95打点という活躍で本塁打と打点の2冠に輝いたとともに、チームもリーグ優勝・日本一を達成し、シーズンMVPも獲得している。
 1957年には打率.317、24本塁打、100打点の活躍で打点王、1958年には打率.314、23本塁打、84打点を残し、首位打者と本塁打王で4度目の2冠王を獲得している。この年は西鉄も、日本シリーズ3連覇を果たしている。
 1959年以降は右手首の腱鞘炎に悩まされ、代打での出場が多くなり、1962年から現役引退する1969年までは監督兼任が続いた。
 1963年には自らも11本塁打の成績を残し、監督としてもチームをリーグ優勝させている。
 1999年、野球殿堂入り。

 小さいながらもがっちりした体格から鋭く振り抜かれる打球は、低いライナーで勢いを失うことなく、よく場外に消えた。守備をする側に脅威を与えた彼の打球は、数々の伝説を残し、「怪童」の名を欲しいままにした。

 通算成績:実働18年 打率.307、244本塁打、785打点。1262安打。首位打者2回(1955・1958)本塁打王5回(1953〜1956・1958)打点王3回(1953・1956・1957)シーズンMVP1回(1956)


数々の伝説


 @史上最長不倒とも言われる本塁打

 1953年8月29日に行われた西鉄×大映戦の6回裏2死、打席に立った中西は、サイドスローの林義一と対戦。
 林の2球目の内角寄りの速球を叩いた中西の打球は、ライナーでセンターへ飛び、バックスクリーンをはるかに超え、その後ろのスコアボードの上を抜けて場外に消えた。落下地点は明らかではないが、外野スタンドから約50メートル離れた福岡城跡までは確実に飛んでいたようである。
 その推定飛距離は160メートル以上と伝えられ、現在でもあれが最長飛距離ではないか、と語り継がれている。


 A4度3冠王を逃す2冠王

 1953年は本塁打王・打点王を獲得。しかし、打率で岡本(南海)に4厘差で敗れて2冠王になった。
 1955年は首位打者・本塁打王になったが、1打点差で打点王を逃し、2冠王で終わった。
 翌1956年は本塁打王・打点王となりながら、三原監督の配慮によって最終戦に出場せず、同僚の豊田にわずか5毛差の.3246で2位でまたも2冠王となった。
 翌1957年には首位打者・本塁打王になりながら打点で並んでいた葛城(大毎)が最終打席で本塁打し、4度にわたって3冠王を逃した。


 Bショートが捕ろうとした打球がスタンドへ

 中西の打球の速さは、並外れていた。中西の打球に関しては信じがたい伝説がいくつも残っている。有名なのは、低いライナーをショートが取ろうとしてジャンプしたが、打球空中で浮き上がるように角度を上げてそのまま外野スタンドに突き刺さってしまったという話である。これには目撃者も多数おり、張本勲も空中イレギュラーする打球を認めていることなどからそういう話は実際にあったようである。打球にスピンがかかって浮き上がっていくようなスイングを中西はしていたわけである。
 そのため、青田昇も同じような経験をしている。1954年のオープン戦でセンターを守っていた青田昇は打球が投手の肩口を抜けてくるのが見えたため、前進すると、打球は勢いを増したように伸びてきてそのまま場外へ消えていったというのである。
 さらに1955年の東京球場での毎日オリオンズ戦では中西の放った地面すれすれの低いライナーがショートの有町昌昭の左膝を直撃し、病院送りとなっている。有町はあまりの打球の速さに一歩も動けず、グラブを差し出すことすらできなかったのである。
 そんな中西の鋭すぎるスイングは投手にとっては大きな脅威になった。中西がファウルチップを打つと、マウンドにいる投手のところまでボールが焦げる臭いがしてきたという。

 
 C3割30本30盗塁

 中西は、特大本塁打を放つばかりではなく、俊足で走塁も一流だった。
 1953年、中西は、打率.314、36本塁打、86打点、36盗塁を記録し、3割30本30盗塁を達成した。これは1950年の別当薫・岩本義行に次ぐ史上3人目の記録である。
 しかし、1950年は、よく飛ぶラビットボールが使われていた1949・1950年の2年間のうちに入っており、別当・岩本らの残した30本塁打以上というのを飛ばないボールの時代に入っていた中西の本塁打数の価値を単純に比べることはできないのである。
 中西は、この年、本塁打王と打点王にも輝いており、ほぼ完璧な成績を残していたと言える。


 D他チームの球団本塁打総数より多かった中西の本塁打数

 中西の打球のすさまじさを物語る伝説は数多いが、過去の伝説であるがゆえに信用できないという人もいる。
 しかし、データは、中西の打球が超人的であったことをはっきりと物語ってくれている。
 1953年の中西の本塁打数は36本で本塁打数2位だったチームメイト豊田泰光に何と9本差を付けている。そして、驚くべきことにこの年チーム成績が3位だった大映のチーム本塁打数はわずか30本。最下位の近鉄も30本しか打っていない。
 つまり中西は、他球団の総本塁打数よりも多くの本塁打を一人で打ってしまったのである。
 中西は翌1954年も31本塁打を放って本塁打王を獲得しているが、この年3位だった近鉄の総本塁打数は27本。怪童どころか、まさに怪物である。


 E日米野球で代打満塁本塁打

 1958年11月4日、大阪球場で行われた日米野球のカージナルス戦の二死満塁の場面に代打で登場した中西は、左中間に弾丸ライナーで飛び込む満塁本塁打を放った。
 その打球はカージナルスナインの度肝を抜き、最終戦のあとで特別表彰を受けている。
 このとき、カージナルスのニ塁を守っていたブレイザーは、後に阪神の監督になったとき、中西を打撃コーチとして招いている。




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