中村 紀洋
 1973年7月、大阪生まれ。右投右打。三塁手。背番号66→3→5(近鉄・オリックス)→66(ドジャース)→205→99(中日・横浜)。府立渋谷(シブタニ)高校で2年時に夏の甲子園に出場したが初戦敗退。1992年にドラフト4位で近鉄に入団。
 1年目に放った初ヒットが本塁打となった。
 1994年の後半にレギュラーの座をつかむと、1994年9月18日の日本ハム戦にはサイクルヒットを達成。
 1995年には20本塁打を放ってホームランバッターへの道を歩み始める。
 手首の故障と手術のため、一時低迷したものの、1998年には32本塁打を放ち、初の30本台に乗せた。
 2000年はチームは最下位ながら、打率.277、39本塁打、110打点の活躍で本塁打王・打点王の2冠を獲得し、日本を代表する打者になった。同年夏には、シドニーオリンピックに出場し、日本代表の四番打者を務めた。中村は、打率.308、2本塁打の成績を残したものの、日本は惜しくも4位入賞にとどまり、メダルを逃している。
 そして、2001年、打率.320、46本塁打、132打点という申し分ない働きで2年連続打点王のタイトルを獲得するとともに、近鉄を12年ぶりのリーグ優勝に導いた。三番を打っているタフィ・ローズとのチーム内コンビで合計101本塁打というのは日本記録である。
 2004年にドジャースに移籍するも、出場機会に恵まれず、17試合出場にとどまった。2006年には日本のオリックスに移籍した。
 2007年にはオリックスの限度額を超える減俸により交渉がまとまらず、他球団とも契約に至らなかったため、中日に育成選手として入団する。そこからレギュラーへとはい上がり、打率.293、20本塁打を残し、さらにクライマックスシリーズ、日本シリーズでも活躍を見せて中日を53年ぶりの日本一へ導き、日本シリーズMVPにも輝いた。
 2008年は24本塁打を放ち、2年連続のゴールデングラブ賞も獲得したが、その年のオフにFA宣言をし、楽天へ移籍した。
 2011年シーズン途中に横浜へ入団し、2012年から2年間はレギュラーとして活躍する。2014年限りで横浜を退団する。
 
 足をキャッチャー方向に高く上げ、その反動を使いながら豪快にフルスイングして弾丸でスタンドまで運ぶパワーと、巧みに右に流し打ちできる技術を持ち合わせたバッターである。代名詞になった「フルスイング」とともに、打った後にバットを投げながら決める派手なポーズで観客を魅了し続けている。

 通算成績(日本22年):打率.266、404本塁打、1348打点。2106安打。本塁打王1回(2000)打点王2回(2000・2001)ベストナイン5回(1996・1999〜2002)ゴールデングラブ賞7回(1999〜2002・2004・2007〜2008)日本シリーズMVP1回(2007)
(大リーグ1年):打率.128、0本塁打、3打点、5安打。
日米通算(23年):打率.266、404本塁打、1351打点、2106安打。
数々の伝説


 @プロ初ヒットが本塁打

 高校2年の夏に府大会決勝でレフト場外とセンターバックスクリーンに2本塁打を放って全国に名をとどろかせた中村は、地元の近鉄にドラフト4位で指名されて入団することになる。
 高卒ルーキーとは思えないほど豪快なスイングをする中村に目をつけたのは名将仰木彬監督であった。
 仰木監督は、1年目の中村を1軍に上げて起用した。
 6月18日の日本ハム戦ではプロ初ヒットを放ち、それがプロ通算1号本塁打となった。


 Aチームが最下位でも2冠王

 2000年、中村は、39本塁打、110打点を挙げて、本塁打王・打点王の2冠に輝いている。
 しかし、チームは、58勝75敗2分で2年連続の最下位に沈んだ。投壊現象は前年よりさらに深刻になってきており、チーム防御率は4.66だった。
 チームが最下位で2冠王に輝いたのは中村と1999年のタフィ・ローズ(近鉄)の2人だけである。
 そして、そんな投壊現象を抱えたまま、2001年に常識破りの優勝を迎えることになる。


 B同一年オールスター3戦連発

 2001年のオールスターは、7月21日に第1戦が行われた。
 全パの四番に座った中村は、1回裏に全セ先発の入来祐作(巨人)からソロ本塁打を放ち、全パの勝利に貢献した。
 さらに翌日の第2戦では、4回表に藤井秀悟から2戦連続のソロ本塁打を放ったが、チームは全セに敗れている。
 そして、7月24日の第3戦では3回裏に3戦連続となる2ラン本塁打を野口茂樹(中日)から放ち、同一年3戦連発という快挙を成し遂げた。
 全パも、8−4で全セを破り、中村は、その試合のMVPを獲得している。
 だが、同じ試合の3回表に松井秀喜(巨人)が同じく3戦連発を達成していたため、わずかの差で史上初の同一年3戦連発達成の座は譲ってしまう結果になった。


 C驚異の認定本塁打

 2001年8月22日、中村は、大阪ドームで行われたオリックス戦の3回に二死満塁で打席に立ち、フルスイングでとらえた打球は、すさまじい勢いで左翼の天井を目がけて飛んでいった。
 しかし、左翼天井の高さ49メートルのところにあるスパーリングに打球は吸い込まれるように入って行き、レフトの田口壮の後ろに落ちた。
 中村は、その光景を見て、アウトだと思い、その場に関西系のノリでこけた。
 しかし、三塁塁審の永見は、すぐに手を回して本塁打のジェスチャーをした。
 中村は、半信半疑の様子で両手を挙げてガッツポーズを繰り出した。
 球団は、その推定飛距離を155メートルと発表している。また、この本塁打で2年連続満塁本塁打3本という日本新記録も達成することになった。


 D松坂から逆転サヨナラ本塁打でマジック1

 2001年9月24日、大阪ドームでの近鉄×西武戦は乱打戦となった。
 西武が序盤はリードを奪ったが、近鉄も5回にローズの55号本塁打が出るなど反撃し、6回には4−4の同点に追いついた。
 しかし、8・9回に西武は1点ずつを加えて6−4と引き離し、先発の松坂大輔が9回裏を抑えれば勝利というところまでこぎつけた。
 疲れが出た松坂は、9回裏、1点を失い、2死でランナーを1人置いて中村を打席に迎えた。
 中村は、松坂の外角高めの直球をフルスイング。打球は、信じがたいほどの飛距離を稼いで右中間スタンドの3階席に弾む劇的な逆転サヨナラ2ラン本塁打となった。
 この本塁打がシーズン45号。ローズの55号とあわせて、史上初めて同じチームの2人合わせて100号というとてつもない記録を打ち立てることとなった。
 この日の勝利により、近鉄はリーグ優勝へのマジックを1とし、優勝をほぼ確実なものにしている。


 Eフルスイング

 豪快に足を上げて思い切りバットを振り抜く中村のフルスイングは、高校入学前に始まっている。渋谷高校の練習に参加させてもらった中村は、カーブのマシンを打たされたため、タイミングをとるために足を高く上げて打った。すると、本塁打になる球がすべて場外に消えたという。
 それから中村は、ずっとその打ち方を貫き通し、プロ入り後も「そのスイングでは打率を稼げない」という酷評を受けながらも変えることはなかった。
 「本塁打の打ち損ないがヒット」と断言し、フルスイングで全打席本塁打を狙う姿勢に、今ではほとんどの人々が共感を寄せている。
 そして、フルスイングで本塁打を放った後に見せる、バットを投げ捨てる華やかなポーズは、少年時代からずっと練習していたという。魅せるためのバッティングをその頃から考えていたわけである。


 Fチーム内コンビで101本塁打の日本新記録

 2001年はローズが55本塁打の日本タイ記録を樹立したが、ローズの後ろに控える四番打者の中村も46本塁打を記録した。
 そのため、2人での合計本塁打数は、101本にのぼった。
 この記録は、1985年の阪神がバース54本・掛布40本で達成した94本塁打を大きく7本も上回って日本新記録となった。
 この年のチーム本塁打数211は、1980年に近鉄が記録した239本に及ばないものの、防御率4.98の投手陣をカバーして余りある強力打線の象徴だった。
 

G大リーグ移籍とセリーグ移籍をせずに近鉄残留

 2002年、42本塁打の成績を残し、11月に行われた日米野球でも2本塁打を放った中村は、満を持してFA宣言をする。
 当初、名乗りを上げたのが巨人と阪神。当然、近鉄も慰留に努めた。まず、早期獲得を目指した巨人が脱落し、阪神か近鉄残留かという状況の中、中村は大リーグのオファーを待つことになる。
 12月になって大リーグのメッツが名乗りを上げたため、メッツ・阪神・近鉄を巻き込んで交渉が続けられたが、長引く交渉にしびれを切らした阪神や交渉をあせって情報を漏らしたメッツに対し、近鉄は最後まで誠実に慰留にあたった。
 中村は、その誠意を尊重して近鉄に残留を決めた。一流選手がこぞってメジャーやセリーグに移籍する中で、中村の決断は、極めて異例であり、新たな一石を投じた。  


H中日の育成選手から日本シリーズMVP

 2006年、オリックスで左手首と左肘の故障もあって85試合出場で打率.232に終わった中村は、球団から年俸2億円から8000万円へ60%の減俸提示を受ける。これは、野球協約で限度として規定されている40%を大きく超えていた。
 中村としては、常に球団のためにプレーしてきた信念があったため、公傷を主張して粘り強く交渉を続けたものの、結局、交渉は暗礁に乗り上げる。中村は、退団し、移籍先を探したが、獲得に動く球団がなく、打撃の師匠である中日の落合博満監督に声をかけられ、育成選手として年俸400万円、背番号205で契約する。
 その後、中村は、その実力を発揮して背番号99をもらい、3塁のレギュラーも獲得する。シーズン中は、故障こそあったものの、打率.293、20本塁打、79打点を残し、シーズン終盤からは3番打者に定着する。そして、クライマックスシリーズでは打率.350を残して日本シリーズ進出に貢献する。
 さらに日本シリーズでは5試合連続で安打を放つなど、18打数8安打4打点、打率.444の活躍で中日を4勝1敗で53年ぶりの日本一に導く原動力となってシリーズMVPを獲得した。  
 




Copyright (C) 2001 Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system