中島 治康
 1910年6月、長野県生まれ。右投右打。外野手。背番号3(巨人)→30(巨人・大洋)。1935年、松本商業(現松商学園)で夏の甲子園に出場し、エースで5番として全国制覇。早稲田大学では打者に転向して活躍。社会人野球の藤倉電線から全日本軍に参加。創設された巨人に入団する。
 1936年春に出場7試合ながら打率.290を残す。
 1937年春には4本塁打で本塁打王を獲得し、巨人の優勝に貢献した。秋には37打点で打点王を獲得した。
 1938年春には打率.345で首位打者、50安打で最多安打に輝いている。
 そして、1938年秋には打率.361、10本塁打、38打点で史上初の三冠王に輝くとともに、56安打で最多安打も記録する。巨人も優勝を果たし、中島はシーズンMVPに選出された。
 1940年にも67打点で打点王を獲得し巨人の優勝に貢献。1942年には111安打、60打点で、3度目の最多安打と4度目の打点王に輝き、巨人を5連覇に導いた。
 1943年と1946・1947年に巨人の監督を兼任し、1943年には優勝を果たしている。1950年には大洋に移り、1951年は監督兼任選手となって28試合出場ながら打率.357を記録したが、その年限りで現役引退した。
 1963年、野球殿堂入り。

 巨体を生かした豪快なスイングで悪球であっても豪快に外野まで飛ばしてしまうバッティングで草創期の巨人の主砲を務めあげた日本初の三冠王である。粗悪な球だった時代の5試合連続本塁打は驚異であり、「和製ベーブ・ルース」という称号も与えられた。

 通算成績:打率.270、57本塁打、493打点、103盗塁、889安打。首位打者2回(1938春・1938秋)本塁打王2回(1937春・1938秋)打点王4回(1937秋・1938秋・1940・1942)最多安打3回(1938春・1938秋・1942)
数々の伝説

 @夏の甲子園で優勝

 1935年、中島は、夏の甲子園に出場する。このとき、中島はエースで5番だった。
 1回戦、2回戦は苦戦するものの、準々決勝は愛知商業に5−0で圧勝。準決勝の高松中戦も3−0と完封した。決勝戦も強豪の平安中を1点に抑え込む中島の活躍により、松本商業は3−1で破って見事に全国制覇を果たした。
 投手としては大エースだったが、打者としては荒削りだったという。打者に転向して頭角を現すのは、早稲田大学に入ってからのことである。


 A日本初の三冠王 

 1938年秋、中島は、巨人の主砲として戦時下の日本を活気づけるほどの働きを見せる。打率.361でハリスの.320に大差をつけて首位打者。本塁打10本で遠藤忠二郎・ハリスの5本塁打に5本差をつけて本塁打王。打点では藤村富美男の34打点に4打点差をつけて打点王。つまり、三冠王である。
 しかし、この日本プロ野球史上初の三冠王は当時、全く注目されなかった。当時は首位打者だけがタイトルという考え方があり、本塁打王や打点王という概念が薄かったのだ。中島の三冠王は、野村克也が戦後初の三冠王を獲得した1965年に初めてクローズアップされてきたのである。
 中島の三冠王が正式にプロ野球実行委員会から認定を受けたのが1965年9月30日。三冠王獲得から実に27年後のことである。1938年秋のシーズンとして認定を受けたが、実際1938年の年間を通しても打率.353、11本塁打、63打点で三冠王だった。
 ちなみに、1938年秋に中島が残した10本塁打は、そのシーズンの南海のチーム本塁打5本の2倍だった。しかも、中島は、全40試合中38試合に出場して56安打を放ち、最多安打も記録している。いかに当時の中島が突出していたかがうかがえる。
 中島の活躍により、そのシーズンの巨人は30勝9敗で優勝を飾る。シーズンMVPに選ばれたのは言うまでもなく中島である。


 B5試合連続本塁打

 三冠王を獲得した1938年秋、中島は、10月11日から22日にかけて5試合連続本塁打を記録する。戦時中はボールが粗悪で、飛ばなかっただっただけに、この記録の価値は絶大なものがある。当時はほとんど本塁打自体が出ず、2試合連続本塁打さえ難しかった。だから、この記録も、達成当時は何の注目を集めることもなく、1973年に記録見直しで発見されるまで誰も気づかなかったそうだ。
 中島の5試合連続本塁打は、1リーグ時代では唯一の記録だった。そして、王貞治が1972年に7試合連続本塁打を放って更新するまで、実に34年間にわたって破られていなかったのである。


 Cワンバウンドの投球を本塁打

 セネタースの金子裕投手は、中島を苦手としていた。どこに投げてもいとも簡単に打たれてしまう。それほど、中島の打撃は並外れていたのだが、金子も打たれてばかりでは面白いはずがない。
 1937年11月1日の対戦で4回、金子は、カウント0−2となったところで投げる球がなくなり、ワンバウンドの球を投げてみた。さすがにワンバウンドなら打たれないだろう、というわけだ。
 しかし、中島は、いとも簡単にワンバウンドの球をレフトスタンドに放り込んだのだ。
 この記録は、のちに中島が日本初の三冠王ということで知名度が上がったため、中島の超人ぶりを象徴する伝説となった。


 D川上哲治を打者にすることを進言

 「打撃の神様」とまで呼ばれる川上哲治は、巨人に投手として入団している。しかし、川上は、アマチュアでは一流の投手だったが、プロとしては並の実力しか持っていなかった。
 ちょうど川上が入団した1938年、レギュラー一塁手の永沢富士雄が故障で長期欠場をよぎなくされた。だが、なかなか代わりとなる一塁手がいない。
 そんなとき、中島は、悩む藤本定義監督へ「川上を一塁手に」と進言する。中島は、川上が人並みはずれた打撃の素質を持っていることを入団してきたときから見抜いていたのだ。
 藤本監督は、中島の進言を聞き入れて、川上を一塁手に転向させる。川上は、その翌年、首位打者を獲得して歴史に残る大打者への階段を登り始める。


 Eライト前ヒットを防ぐ1塁走者封殺でノーヒットノーランを援助

 アマチュア時代に投手をやっていた中島は強肩だった。プロではライトを守っていたが、しばしば二塁手のすぐ後ろに守ってはライト前に抜けてきた球を捕ってすぐ一塁に投げ、よくライトゴロを完成させていたという。
 その守備で中島は、中尾輝三(碩志)のノーヒットノーランを助けている。中尾は、1939年11月3日のセネタース戦で初めてのノーヒットノーランを達成するが、4回に四球で出したランナー1塁からライト前へ落ちる打球を運ばれている。しかし、普通ならヒットとなるところだったが、浅く守っていた中島が素早く2塁に送球して1塁ランナーを封殺。ライトゴロにしとめて中尾のノーヒットノーラン達成を助けたのだ。さらに中尾は、1941年7月16日の名古屋戦で2回目のノーヒットノーランを達成しているが、このときも8回に四球で出したランナー1・2塁からライト前へ落ちた打球を中島が2塁へ送球して封殺し、ノーヒットノーランを手助けしたのである。
 




Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system