中畑 清
 1954年1月、福島県生まれ。右投右打。内野手。背番号24。安積商業高校から駒澤大学に進み、東都大学リーグでMVPを獲得するなど活躍。1976年にドラフト3位で巨人に入団。
 プロ1年目にイースタンリーグで打点王を獲得したものの、プロ入り後の3年間は1軍と2軍を行き来する生活が続く。
 1979年に高田繁からサードのポジションを奪い、打率.294、12本塁打で頭角を現す。
 1980年には、22本塁打、1981年には21試合連続安打を放ち、シーズン打率.322で初の3割達成と、順調に成長を見せる。1981年には日本シリーズで本塁打も放ち、巨人の日本一に貢献している。
 1983年には2度目の3割を達成し、チームもリーグ優勝を果たした。日本シリーズではサヨナラ安打を放つなどの活躍を見せて優秀選手賞に選ばれたが、西武には熱戦の末3勝4敗で敗れた。
 1984年には打率.294、31本塁打、83打点と自己最高の成績を残す。
 1987年にも打率.321を残して巨人のリーグ優勝に貢献するなど、シーズン打率290以上を7回残す確実性を見せた。
 1989年には若手の台頭によって控えに回り、その年の日本シリーズ終了後に引退。そのシリーズの最終第7戦では本塁打を放ち、有終の美を飾った。
 巨人のコーチを経て、2004年に開催されるアテネ五輪の日本代表コーチに就任している。

 守備に打撃に派手なアクションを見せ、大きな声でチームのムードメーカーとなってON引退後の巨人の顔となった。打者としても、確実性のある中距離ヒッターとして安定した成績を残した。

 通算成績(実働13年):打率.290、171本塁打、621打点、1294安打。ゴールデングラブ賞7回(1982〜1988)
数々の伝説

 @目立つ

 中畑がまず始めたのは目立つことだった。中畑は、大学時代、よくサングラスをかけてプレーしていた。視力が悪かったこともあるが、色を入れていたのはもちろん目立つためである。
 当然、プロに入ってからもその姿勢が変わることはなかった。長嶋監督に見出されるために「絶好調」を連発し、一塁守備ではランナーに派手なタッチを見せ、走ってはする必要がなくともヘッドスライディングでファンを魅了した。
 打撃でも積極的な姿勢を崩さず、長嶋ばりの派手な空振りを見せたり、打てば万歳の大きなアクションを見せたり、と優れたエンターテイナーでもあった。


 A伝説の伊東キャンプで飛躍

 1979年、中畑は、100試合に出場して打率.294、12本塁打を残し、レギュラー獲得の一歩手前まで来ていた。しかし、チームは、5位と低迷する。長嶋監督は、巨人軍の建て直しを図るため、若手選手17人を集めて10月25日から静岡県伊東市で秋季キャンプに入った。
 メンバーは、西本聖、江川卓、松本匡史、河埜和正など、後に巨人を支えていくべき選手たち。その中に中畑もいた。
 長嶋は、朝から晩まで厳しく選手を指導した。中畑も、徹底的に基本から叩き込まれ、毎日倒れる寸前まで鍛え上げられた。
 翌年、巨人は、3位に上がり、Aクラスに復帰する。中畑も、22本塁打し、初めて20本台に乗せた。だが、長嶋は優勝できなかった責任をとる形で監督を退くことになった。
 伊東キャンプで鍛え上げられたメンバーが本領を発揮するのは翌1981年からである。この年、中畑は、打率.322を残し、江川・西本らの活躍もあって巨人は4年ぶりにリーグ優勝を果たす。1979年の伊東キャンプは「地獄の伊東キャンプ」として伝説となった。


 B日本シリーズでサヨナラヒット

 1983年の西武×巨人の日本シリーズは、歴史に残る名勝負となった。巨人は3勝4敗で敗れはしたが、中畑は、そのシリーズで見せた活躍により、優秀選手賞に選ばれる。
 その中でも目立っているのが第3戦である。この試合は、西武が2回表に1点を先制すれば、巨人が4回裏に2点を返して逆転し、6回表に西武が3点を取って4−2と再逆転するシーソーゲームとなった。
 巨人も8回裏に1点を返して1点差に詰め寄るが、劣勢は変わらない。9回裏、巨人は、簡単に2死となるが、そこから3連打で同点とする。
 ここで中畑が打席に入った。中畑は、西武のリリーフエース森繁和から見事なレフト前ヒットを放つ。走者が生還して5−4。中畑の劇的なサヨナラ安打で巨人は勝利をものにしたのである。


 C絶好調男

 中畑は、人から打撃の調子を聞かれるとたとえスランプにあっても「絶好調」と答えた。凡退が続いていても1本ヒットが出れば、「絶好調」を連発して自らを奮い立たせた。
 中畑をそんなキャラクターに仕立て上げたのは長嶋茂雄監督だった。長嶋は、中畑に「どんなときでも『絶好調』と答えろ」と指導していたという。
 以来、中畑は、「絶好調」を口癖にし、外国人選手のクロマティにまで「絶好調」という言葉を教えていた。
 そのためか、中畑は、1984年に3打席連続本塁打を放ったり、生涯打率.290を残したり、ゴールデングラブ賞を7回受賞したり、と絶好調な記録を残している。
 そんな中畑にはいろんな愛称がついた。「絶好調男」「ヤッターマン」「お祭り男」「燃える男」など。すべてが明朗活発なイメージだ。中でも「絶好調男」は引退後も代名詞のように使われているほどである。


 DON引退後のスーパースター

 ON引退後の巨人が最も悩まされたのは、次世代のスター育成だった。抜群の知名度と実績を誇っていた王・長嶋を超える選手は、そうは見つからない。
 原辰徳がONの後継者として頭角を現してきたものの、ONに並ぶような成績を残せず、いつも教科書通りのコメントしか残さないため、常に批判にさらされていた。
 そこで注目されたのが絶好調男の中畑だった。彼の豪快で明るいキャラクターは、ONの後を継ぐスター選手と言うにふさわしかった。一塁手は他球団を見渡せば、看板選手が名を連ねているが、そんな中で1980年代のオールスターファン投票では5度も選出されている。王貞治引退後、一塁手と言えば、中畑だったのである。ちなみに中畑の全盛期に中畑をファン投票で破って選出されたのは、バースとホーナーだけである。


 E労働組合日本プロ野球選手会初代委員長

 中畑が入団した頃、プロ野球選手にはまだ労働組合がなかった。大リーグでは既に1965年から労働組合大リーグ選手会があったが、日本の各球団は、いずれも選手の労組結成に批判的であった。それでも1980年には選手達が集まって結成した日本プロ野球選手会が社団法人となって労組結成に向けて動き出した。
 日本プロ野球選手会は、1984年に入ると球団側には隠密に選手から入会届を集め、協議を進めた。そして、1985年に東京都労組委員会に資格審査を請求し、認可を受けて、ようやく労働組合となったのである。選手の権利拡大に熱心だった中畑は、初代委員長に就任する。熱血漢中畑にとっては、まさに適任なのだが、プロ野球選手会は、創設当初から困難にぶち当たる。
 ヤクルトが選手会を脱退したのだ。ヤクルトのオーナーの意向だった。それでも、中畑は、ヤクルトが抜け、まだ立場が弱い草創期のプロ野球選手会をまとめ上げた。
 その踏ん張りが後に最低年俸の引き上げ、保有選手枠の拡大、FA制度導入へとつながっていったのである。


 F現役最終試合で本塁打

 1989年の日本シリーズは、歴史に残る名勝負になった。近鉄が先に3連勝して一気に決めるかと思われたが、そこから巨人が押し返して3勝3敗とする。
 決着は、最終第7戦に持ち越されたのだった。
 第7戦は、白熱した乱打戦となる。巨人は4−0から4−2に追い上げられた後、6回表に原辰徳が2ラン本塁打を放ち、6−2と突き放す。この盛り上がったところで登場したのが代打中畑だった。
 中畑は、原に続けとばかりにレフトスタンドへ見事な本塁打を叩き込む。1980年代の巨人を引っ張った2人の連続本塁打は、勝負を決める貴重な一発だった。巨人は、8−5で近鉄に打ち勝って日本一となった。
 このシリーズを最後に現役引退を決めていた中畑にとって、その本塁打が現役最終本塁打となった。




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