村田 兆治 
 1949(昭和24)年、広島県生まれ。右投右打。投手。背番号29。旧名:長次。福山電波工業高校(現近大福山高校)から1968年、ドラフト1位で東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)へ入団。甲子園出場はなかったが、高校時代に球速は既に150キロをはるかに超えていたと言われている。
 3年目に5勝を挙げてロッテのリーグ優勝に貢献。4年目の1971年に独特のまさかり投法を考え出して12勝を挙げてからエースとして活躍し始めた。
 1974年には12勝でチームのリーグ優勝と日本一に大きく貢献。1975年には防御率2.20で最優秀防御率の初タイトルを獲得。
 1976年には以後伝家の宝刀となるフォークボールをマスターして21勝をマークしている。
 1981年には19勝で最多勝のタイトルを獲得。
 しかし、1982年に右肘を故障し、再起不能とまで言われた。しかし、当時はまだ日本では認められていなかったアメリカのジョーブ博士による手術を決断。2年間のブランクの後、1984年8月に奇跡の復活を遂げた。
 1985年には開幕から11連勝という快挙も達成し、17勝を挙げている。
 復活後は、中6日開けて毎週日曜日に登板するため、「サンデー兆治」の異名をとった。
 1990年、史上2人目となる40歳台二桁勝利を挙げたものの、その試合を最後に引退した。
 2005年、野球殿堂入り。

 投げる際に腰を前に押し出しながら、右腕をふくらはぎの後ろまで降ろしてボールの握りを見えなくし、そこからまさかりを振り降ろすように投げる球は150キロを超えていた。またそのフォームから繰り出す速くて落差の大きいフォークボールにも定評があった。

通算成績(実働22年):215勝(歴代15位)177敗33S、防御率3.24、2363奪三振(歴代8位)。最優秀防御率3回(1975・1976・1989)、最多勝1回(1981)、最多セーブ1回(1975)。最多奪三振王4回(1976・1977・1979・1981)。
数々の伝説

 @暴投数 歴代1位

 入団当初から村田の投球は、球は速いがコントロールには少し難があった。
 さらにまさかり投法や鋭いフォークボールのマスターによって、投球の幅は広がったが、同時に暴投も増えた。
 村田がシーズン暴投王になったのは12回。通算暴投数は148個で、2位をはるかにしのいで断トツの1位である。
 暴投のほとんどは、あの高速で落差の大きいフォークボールだと言われ、フォークの暴投によってピンチを招いたが、そのピンチをフォークで切り抜けていたといわれている。
 それだけの暴投数を誇りながら、通算四球と通算死球は共に歴代8位となっている。


 A長い指でフォークをマスター

 村田は、入団数年目から投球の幅を広げるために、フォークの習得に乗り出した。
 中日の杉下や阪神の村山と言った往年の大投手に習い、杉下並の鋭いフォークボールを身につけた。
 それは、人並みはずれて長い指を持っていたことと、指の筋力を鍛え上げることで編み出した。
 これを伝家の宝刀とするようになってから奪三振も増え、以後4度の奪三振王に輝いている。


 Bまさかり投法

 村田は、入団当初、ごく普通のオーバースロー投手だった。
 1975年、2試合連続で南海打線に打ち込まれ、4失点・5失点で負け投手になった村田は、南海コーチのブレイザーが村田のフォークボールの癖を見破っていることを知る。
 それから、村田は、フォーム改造に乗りだし、投球の前、右腕をふくらはぎの後ろに隠れるように地面近くまで降ろし、そこからまさかりを振り下ろすように豪快に球を投げ下ろすフォームにした。
 この年、見事に最優秀防御率を手にした村田は、以後このフォームを貫き通した。


 C落合のバットをへし折る

 落合博満がまだファームでくすぶっていた頃、フォームを崩した村田が調整のためにやってきた。
 村田は、落合を見つけてフリーバッティングの投手をかってでた。
 しかし、村田の1球目の直球に落合のバットは折れ、気を取り直した2球目でもバットはへし折られたという。
 バットを折らないことで有名な落合のバットを2球で2本折ったことで、落合は改めて村田のすごさを知ったという。


 D奇跡の復活劇

 1982年5月、村田は右肘痛で降板、この年は登板できず、わずか4勝に終わった。様々な治療法を試みたが翌年も全く痛みはひかず、原因も不明で再起不能とまで言われた。
 1983年、村田は、渡米してジョーブ博士の診断を受け、右肘の腱が切れていることが発覚。
 すぐに手術に踏み切り、左手首の腱を右肘に移植するという大手術を受ける。
 懸命のリハビリの末、1984年8月、村田は、約2年ぶりに1軍のマウンドに復帰し、西武打線を1イニング3人で抑えているが、この年は0勝に終わっている。
 翌1985年4月14日、村田は、前年の試運転から本格的な復活に向けて先発のマウンドに上がった。
 村田は、7回まで3塁を踏ませないピッチングを見せた。結局、疲れから2点を失ったものの、4番に座る落合博満の2本塁打などで援護を受けて完投勝利を飾った。
 その年は、何と17勝5敗の好成績で、見事カムバック賞を受賞した。


 Eシーズン10勝、最後は完封で引退

 1990年10月13日、ロッテ×西武戦が行われた。
 これは、村田の引退試合でもあった。
 このシーズン、村田は9勝。西武は、既に優勝を決めていたが、ベストオーダーを組み、と先発にもエース格の郭を立てた。
 村田は激しい雨の中、好投を見せて西武に得点を許さない。3回にディアスの本塁打などで4点を奪ったロッテは、5回降雨コールドで4−0で勝利。この日の村田は、MAX145キロ出ていたという。
 村田は引退試合を完封で飾り、史上二人目となる40歳台二桁勝利も達成した。



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