数々の伝説
@高校時代は柴田勲の控え投手
高校時代の村上は、名門法政二高で野球をしているが、目立たない存在だった。一年先輩でエース兼主力打者としてチームを引っ張っていたのが後に巨人入りする柴田勲だったからである。日本プロ野球初のスイッチヒッターだった柴田は、巨人で外野手として活躍し、通算2000本安打、6度の盗塁王に輝く大選手となった。
村上は、そんな柴田の控え投手であり、注目を浴びることはなかったが、法政二高は1960年夏、1961年春と甲子園で夏春連覇を成し遂げる。村上は、1961年春に1イニング登板したのが唯一の登板だった。
柴田の卒業後、ようやく法政二高のエースとなるが、柴田の残した実績があまりにも素晴らしかったため、世間から高評価を得ることはなかった。
しかし、村上の投手としての素質は南海の名将鶴岡一人監督に注目されることになる。そして、3年生の秋に南海と契約して入団する。背番号は10。かなり期待されての入団であることがうかがえる。村上が入団を決めたのは、南海がアメリカへ野球留学させてくれることを約束してくれたからであると言われている。
Aプロ2年目でアメリカ1Aへ留学
プロ1年目は3試合しか登板がなかった村上は、2年目の1964年、入団時の約束通りアメリカの1Aへ野球留学することになる。サンフランシスコ(SF)ジャイアンツ傘下のフレスノというチームである。
送られたのは、若手ばかり3人で、捕手の高橋博、内野手の田中達彦、そして村上。
1Aのフレスノで欠かせぬ戦力となった村上は、荒れ球を武器にカーブ、そしてアメリカでマスターしたスクリューボールを巧みに織り交ぜた投球で106回を159奪三振、11勝7敗、防御率1.78という成績を残した。当初、6月中旬までの留学予定であったが、フレスノは村上を日本に返す素振りは見せず、また南海からも帰国要請はなかった。
南海は、この年、投手はスタンカや杉浦忠、打者では野村克也や広瀬叔功などの活躍でパリーグを制するとその勢いで日本一になっており、わざわざ日本で実績のないアメリカの村上を呼び戻すまでもなかったのである。
B日本人初の大リーガー
フレスノで大活躍を見せていた村上は、その年の8月31日、突如大リーグ昇格を伝えられる。1Aから2A、3Aを超えての大リーグ昇格は異例中の異例であった。当時、人種問題に揺れていたアメリカの政治手法としての抜擢であったという説もある。
どのような事情があったにせよ、村上は、日本人初のメジャーリーガーとなり、実力で活躍を見せることになる。9月1日に8回からリリーフでメッツ打線を1イニング無失点に抑えると大リーグでも貴重な中継ぎ左腕として台頭する。
9月29日のコルツ45戦では4−4の9回表に登板。その回をきっちり抑えて延長戦に突入したものの、村上は11回まで抑えきり、チームが11回裏にサヨナラ勝ちしたため、メジャー初勝利を挙げることになった。
大リーガーとなった日本人の出現にアメリカは沸き、村上は「マッシー」という愛称まで付けられた。この年、村上は、9試合を1勝0敗1S、防御率1.80という見事な成績で終えて帰国した。
C紛糾した契約問題
村上は、SFジャイアンツと翌1965年の契約をした後、12月に日本へ帰国。だが、待ち構えていたのは、南海・SFジャイアンツ間の契約問題だった。
南海とSFジャイアンツは、南海から選手を留学させるとき、「もし大リーグ昇格できる選手がいたならSFジャイアンツと1万ドルで契約できる」という旨の条項を交わしていたのである。
それにしたがって、SFジャイアンツは1965年に村上と契約する代わりに南海へ1万ドルを送ってきたのだ。
南海は、このままでは村上をSFジャイアンツに奪われてしまう、とあせった。短期間の野球留学で行かせただけであり、まさか大リーグで活躍するとは夢にも思っていなかったからである。
南海はここで横車を押す。1965年2月、南海は村上を日本でプレーするように説得し、南海とも契約させてしまうのだ。このときマスコミや両親まで巻き込んで村上が渡米を思いとどまるように差し向けていったと言われている。
こうして、村上は、SFジャイアンツと南海の二重契約のような形になってしまった。
そうなると、SFジャイアンツ側も黙ってはいない。アメリカから見れば完全な契約違反である。アメリカ大リーグのコミッショナーは、日本のコミッショナーに文書を送って抗議した。
3月17日には日本のコミッショナーが「村上は1965年だけSFジャイアンツでプレーし、1966年以降は日本でプレーする」という日本的な妥協案を出したものの、アメリカ側は納得しなかった。
しかし、シーズンが既に始まってしまった4月28日になってようやくアメリカ側が妥協案を呑み、南海がもらった1万ドルをSFジャイアンツに返すことで決着した。
ようやく村上は、1965年にも大リーグでプレーできることが決まったのである。
D最後の大リーグ生活
契約問題の解決が遅れたため、村上が1SFジャイアンツに合流したときには、公式戦が始まって1ヶ月が過ぎていた。
それでも、村上は、SFジャイアンツのリリーフ投手として活躍を見せ、45試合に登板して4勝1敗8S、防御率3.75という成績を残した。74回3分の1を投げて84奪三振という素晴らしい奪三振率を記録している。
終戦記念日にあたる8月15日には「村上デー」と宣伝され、初めて先発をしているが残念ながら3回途中で降板している。
こうして日本人初の快挙を成し遂げた村上は、2年間で5勝1敗9セーブ、100奪三振、防御率3.43を残してアメリカから帰国する。もはや、翌年以降に南海以外のチームでプレーすることは許されなかったからである。
E帰国後、南海のエースに
帰国当初の村上は、現役の日本人大リーガーが戻ってきたということで、世間の人々の期待を一身に受けていたという。
帰国1年目の1966年は、主にリリーフとして46試合に登板し、6勝4敗、防御率3.08というまずまずの成績を残し、チームもリーグ優勝を果たす。だが、期待が大きすぎただけに、世間の評価は低かった。村上も速球にこだわったため、アメリカにいたときほどのピッチングができなかったようである。
しかし、村上は、1968年に本領を発揮し、主に先発として18勝4敗、防御率2.38という素晴らしい成績で勝率.818となり、最高勝率のタイトルも手にした。
それからは南海のエースとして活躍。合計4度の2桁勝利を挙げるなど、活躍を見せた。
F日本で3球団を渡り歩く
村上は、1975年に南海から阪神に移籍。再びリリーフ投手として活路を見出そうとしながら、1976年には日本ハムに移籍。
日本ハムで村上は1977年に7勝4敗6セーブ、防御率2.33と鮮やかに復活。1978年には12勝11敗10セーブ、防御率3.03と活躍している。
村上は、日本で3球団を渡り歩き、103勝30セーブを挙げた。日本でも一流の働きをしたと言ってもいいだろう。SFジャイアンツを含めると合計4球団でプレーしたことになる。
|