森 昌彦(祗晶・祇晶)
 1937年、大阪府生まれ。捕手。右投左打。背番号27。岐阜に疎開し、岐阜高校で2度甲子園に出場したがともに1回戦敗退。卒業して1955年、巨人に入団。
 4年間の下積み生活を経て、1959年、先輩の藤尾茂の故障中に巧みなリードで正捕手の座を獲得。藤尾は外野にコンバートされた。
 レギュラー獲得後は、ON全盛期のV9を卓越したリードで支えた。骨折や脱臼をものともせず、常に試合に出場し、レギュラーの座を守り続けた。
 1967年には、打撃だけでなく、好リードなどの守備面が評価されて、阪急との日本シリーズでMVPを獲得している。
 チームの快進撃がV9で途切れた1974年、現役引退。
 現役20年で巨人のリーグ優勝は実に16回、日本一は12回にのぼっている。
 引退後、ヤクルト、西武のコーチを経て、1986年から西武監督に就任。1年目から日本一となり、9年間の監督生活で8度のリーグ優勝と6度の日本一を達成した。
 2001年から2年間、横浜ベイスターズの監督を務めた。
 2005年、野球殿堂入り。

 相手打者だけでなく、相手チームの監督の采配までも研究し、コーナーワークを駆使した頭脳的なリードで巨人の黄金時代に守備の面から大きく貢献した。リード、捕球のうまさ、肩という捕手としてのすべてを兼ね備えていた捕手である。

 通算成績(実働20年):打率.236、81本塁打、582打点。1341安打。ベストナイン8回(1961〜1968)日本シリーズMVP1回(1967)
 

数々の伝説


 @4年間の下積生活

 森は、巨人に入団したが、同期には中京商から入った加藤という捕手がいて、世間の注目はもっぱらそちらの方にあった。
 そのため、森は、ブルペン捕手として、投球練習の壁の役目を黙々とこなすことになった。
 その当時、巨人の正捕手は、藤尾茂が守っており、打撃ではかなわない、と思った森は、ブルペン捕手をする傍ら、膨大なメモをつけて、リードの仕方を研究した。
 そして、入団5年目の1959年、藤尾が故障で戦列を離れたときに、リードが首脳陣に認められて正捕手の座を獲得した。森の台頭によって、バッティングのいい藤尾は外野にコンバートされた。


 A皆殺しの森

 森は、正捕手の座を獲得したものの、川上哲治監督を中心とする首脳陣は、捕手の強化を図るために、新人捕手を獲得し続けた。
 大橋勲、野口元三、佐々木勲、宮寺勝利、槌田誠、吉田孝司といった新人捕手が次々と入団してきた。
 しかし、森は、どんな故障をしようが、常に出場し続け、彼らにレギュラーをとる隙を与えなかった。
 世間の人々は、そんな森の執念を見て「皆殺しの森」と呼んだという。


 B走った5人を全員アウト

 1960年の対大洋戦で、大洋は2回二死一塁から近藤昭が盗塁を図ったが、森は二塁で刺した。
 続く3回にも島田、4回には近藤和、6回にも沖山が二盗を図ったが、森が強肩で阻止し、すべて失敗に終わっている。
 そして、7回には一死一、三塁から浜中が二盗を企てると同時に、三塁の黒木が本盗を図る、という重盗作戦に出たが、森の送球をカットした二塁手が素早く本塁に返球し、森がタッチしてアウト。結果的に5人全員の盗塁を阻止することになった。
 これこそ「皆殺しの森」である。


 Cノーヒットノーラン直前の投手から逆転サヨナラホームラン

 1966年9月26日、巨人は既にリーグ優勝を決めており、巨人×中日戦は、消化試合となった。
 試合は、緊迫した投手戦となり、中日は佐藤公博投手が優勝決定で気が緩んでいる巨人打線を手玉にとり、8回まで3四球を出したのみでノーヒットに抑えていた。
 9回表にはついに中日が1点を先制し、1−0で9回裏を迎えることになった。
 佐藤は、簡単に2アウトをとり、柴田勲を打席に迎えた。
 しかし、柴田は、ここで佐藤の夢を破る左中間二塁打を放つ。
 次の打者は、世界のホームラン王である王貞治。一塁が空いているので当然のように敬遠された。
 そして、森が打席に入った。
 森は、気落ちしている佐藤の初球をものの見事にライトスタンドへ。逆転サヨナラ3ラン。森は、佐藤のノーヒットノーランの夢を砕くだけでは飽き足らず、佐藤を惨めな敗戦投手にしてしまったのである。


 D日本シリーズMVP

 1967年の日本シリーズは、巨人×阪急となり、巨人が4勝2敗で日本一になった。
 森は、打率.227、1本塁打、4打点だったが、巧みなリードや機動力封じなどの守備面での貢献が大きく評価され、日本シリーズMVPに選ばれている。
 捕手で日本シリーズMVPを獲得したのは、1962年の種茂雅之(東映)と1997・2001年の古田敦也(ヤクルト)と森の3人のみである。
 

 E西武監督9年間でリーグ優勝8回、日本一6回

 1986年、森は、広岡達朗の後を引き継いで西武ライオンズの監督に就任した。
 その年、いきなり優勝して前年の広岡監督時代からパリーグ2連覇達成。日本シリーズも4勝3敗で勝利した。
 翌1987年は2位に9ゲーム差を付ける圧倒的な強さでパリーグ3連覇。日本シリーズも2連覇した。
 その後、1989年は勝率2厘差で近鉄に優勝を譲ったものの、1994年までの監督生活9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一を達成。広岡監督の優勝を含めて1985〜1988年まで4連覇、1990〜1994年までは5連覇。日本シリーズも1986〜1988年までと1990〜1992年まで3連覇を2度達成している。
 その緻密で理論的な采配は、あまりの慎重さから、諺の「石橋を叩いて渡る」をもじって「鉄橋を叩いても渡らない」とまで言われた。
 それでも、森監督は、1994年、リーグ優勝したにも関わらず、辞任。
 常に勝ち続けるための気力の限界と、あまりの常勝のための観客動員減少への責任をとったと言われている。



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