水谷 実雄
 1947年11月、宮崎県生まれ。外野手、一塁手。右投右打。背番号38→4。宮崎商業高校では2年生の時にエースで四番打者として夏の甲子園に出場し、ベスト4の成績を残す。
 1966年にドラフト4位で投手として広島に入団する。しかし、キャンプ前に腎臓病を患い、1年目は1軍出場なしに終わる。プロ2年目には肩を痛めて野手に転向する。
 5年目の1970年に外野手として106試合に出場して7本塁打を放つと、1971年にはレギュラーを獲得して打率.283、9本塁打、14盗塁を残し、ベストナインに選出される。
 1975年には打率.285、13本塁打を残して広島の球団創設初優勝に貢献する。
 1976年には打率.308、26本塁打を放つ。
 1977年に打率.312を残すと、1978年には打率.348、25本塁打、75打点の活躍で首位打者のタイトルを獲得する。
 1979年には23本塁打を放って広島の2度目のリーグ優勝に貢献すると、1980年には22本塁打で3度目のリーグ優勝に貢献する。
 1981年には打率.337、23本塁打、82打点の活躍を見せる。
 1982年には打率.303で5度目の打率3割を記録する。しかし、加藤英司との大型トレードにより、阪急に移籍する。
 1983年には阪急の四番打者として打率.290、36本塁打、114打点の活躍で打点王を獲得する。
 しかし、1884年の開幕戦で頭部死球を受け、三半規管骨折によって長期欠場する。1985年も、前年の死球の影響で本来の打撃が戻らず、その年限りで現役を引退した。
 現役引退後は、名コーチとして数々の名選手を育成している。

 がっちりした風貌で前かがみに構え、バットを投手側に一旦倒してからスイングするバッティングで高打率を残しながら本塁打も量産した。広島で初優勝を含む3度の優勝に貢献し、弱小球団を常勝軍団に押し上げた。

通算成績(実働19年)打率.285、244本塁打、809打点、1522安打。首位打者1回(1978)打点王1回(1983)ベストナイン1回(1971)

数々の伝説


 @夏の甲子園ではエースで四番

 1964年、水谷は、宮崎商業高校のエース兼四番打者として夏の甲子園に出場し、投打にわたる活躍で快進撃を進める。
 初戦では、旭川南高校を2−0で破ると、2回戦の滝川高校戦でも4−1で破り、準々決勝の熊谷商工高校を5−1で破り、準決勝に進出する。
 しかし、準決勝の高知高校戦では、息詰まる投手戦の末、0−1で敗れ、決勝戦進出を逃し、ベスト4に 終わった。


 A病気で出遅れる

1966年、水谷は、投手としてドラフト4位で広島に入団する。しかし、水谷は、入団直後に腎臓病にかかり、入院することになる。そのため、1年目は、大きく出遅れ、そのまま1軍出場なしに終わっている。
 そして、プロ2年目の1967年、水谷は、投手の生命線である肩を痛めてしまう。水谷は、結局1度も1軍で登板しないまま、野手への転向を決める。その後、内外野を守りながら、チャンスをうかがい、1970年に外野手としてレギュラーに定着することになる。


 B広島の初優勝に貢献

 1975年、水谷が7番に座るという強力打線の広島は、ホプキンス・山本浩二、衣笠祥雄のクリーンアップを中心とした圧倒的な破壊力で快進撃をしていく。特に夏場以降には勢いを増し、投手陣も外木場義郎や池谷公二郎、佐伯和司を中心にして安定していた。
 広島は、2位中日に4.5ゲーム差をつけて球団創設初優勝を遂げる。水谷も、打率.285、13本塁打の成績を残して、優勝に大きく貢献した。


 C首位打者

 水谷は、がっちりした体格で豪快そうな風貌ながら、バッティングは繊細で、内角球をさばくのが巧みで、ボールにスピンをかけて遠くに飛ばす技術も優れていた。
 そのため、本塁打も量産しながら、高打率も残せる選手だった。1978年は、水谷がアベレージヒッターとしての魅力をいかんなく発揮し、主に5番打者として安打を量産し、打率.348の高打率で2位の若松勉に7厘差をつけて首位打者を獲得する。
 1981年にも打率.337の高打率を残したものの、リーグ5位に終わっている。


 D広島黄金時代

 広島は、1975年に初優勝すると、1979年には2度目のリーグ優勝を果たし、翌1980年にはセリーグ連覇を果たす。1979年と1980年は、日本シリーズも連覇している。
 水谷は、この3度の優勝に大きく貢献し、山本浩二や衣笠祥雄、ライトルらとともに広島黄金時代を支えた。水谷は、強力打線の中で主に5番打者、6番打者を務め、安定した打撃でチームを牽引した。
 1979年の近鉄との日本シリーズでは、第3戦と第4戦で本塁打を放っていずれも勝利に貢献し、1980年の近鉄との日本シリーズでも、第3戦と第5戦、第6戦で本塁打を放ち、特に第6戦では、初回に満塁本塁打を放って、一振りで試合を決める勝負強さを見せた。


 E大型トレードで阪急へ移籍

 1982年オフ、広島の主力打者として205本塁打を放ってきた水谷は、阪急の主力打者加藤英司との大型トレードで阪急に移る。阪急は、成績の落ちてきたベテラン加藤の放出を決めており、広島が右投手に強い左打者を求めていたことから、右打者のベテラン水谷がトレード対象となったのである。
 水谷は、トレードに出された1977年も打率.303、18本塁打の好成績を残しており、阪急でも主力打者としての活躍を期待されていた。
 水谷は、広島を見返そうと、それまで以上の練習を重ねる。そして、水谷は、阪急1年目で素晴らしい活躍を見せることになる。


 F阪急で打点王

 阪急では、開幕戦に5番打者として出場すると、その後、9試合目からは4番打者として阪急打線を引っ張る。左投手に弱い阪急にあって、左投手を苦にせず打てる水谷の存在感は大きかった。
 勝負強いバッティングにはさらに磨きがかかり、広島を見返す意識が本塁打も広島時代以上に量産させることになる。
 水谷の打棒により、阪急は、前年の4位から、優勝した西武に次ぐ2位の成績を上げている。水谷も、シーズン打率.290、36本塁打、114打点で自己最高の本塁打数、打点数を稼ぎ出し、自身初の打点王を獲得した。


 G選手人生を変えた死球


 1984年3月31日、開幕戦となる阪急×ロッテ戦に出場した水谷は、第2打席で土屋正勝投手の剛速球を頭部に受け、そのまま病院に運ばれることとなった。診断は、三半規管骨折という重症だった。
 結局、この死球の後遺症に悩まされた水谷は、復帰後、63試合に出場したものの、打率.181、3本塁打に終わる。
 翌年も、水谷の打棒は戻ることなく、わずか13試合の出場に終わり、現役を引退することとなった。


 H打撃コーチとして名選手育成

 水谷は、現役引退後、阪急、広島、近鉄、ダイエー、中日、阪神と6球団を渡り歩いて打撃コーチを務めている。1986年からは15年間にわたって5球団で指導したのち、阪神で4年間指導した。
 水谷が育てたのは、1987年から1988年の阪急コーチ時代に高橋智、1989年から1993年の広島コーチ時代に江藤智、前田智徳、金本知憲、1994年から1995年の近鉄コーチ時代に中村紀洋、1996年から1997年のダイエーコーチ時代に城島健司、松中信彦、1998年から2001年の中日コーチ時代に福留孝介、井端弘和らである。






(2013年9月作成)

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