1970年11月、大阪府生まれ。内野手。右投右打。背番号6。PL学園高校では、2年夏に甲子園で全国制覇を果たす。高校卒業後は、同志社大学へ進み、2年生で春季首位打者を獲得する。その後、社会人野球のプリンスホテルに進み、1995年、ドラフト2位でヤクルトに入団する。
1年目は、主に守備固めとして起用され、67試合に出場してヤクルトの日本一に貢献する。3年目の1997年に遊撃手としてレギュラーを獲得し、打率.282、16盗塁を残し、得意の守備でゴールデングラブ賞を獲得する。
1998年には入団時の集団脱税事件への関与が発覚し、4週間の出場停止処分を受けたものの、114試合に出場を果たす。
1999年には、2番打者として45犠打を記録し、2000年には初の打率.300を記録する。
2001年には打率.270ながら67犠打を残して、シーズン犠打日本新記録を樹立し、チームを日本一に導く。この年から4年連続最多犠打を記録し、ゴールデングラブ賞は、1999年から5年連続で獲得する。
2004年には打率.301を記録し、2007年から2008年にかけて2年連続3割を残して、アベレージヒッターとしても定着する。アテネ五輪には日本代表として出場し、銅メダル獲得に貢献する。
2005年オフにはプロ野球選手会長に就任し、2008年オフまで3年間務め上げる。
2006年には、第1回WBCの日本代表として、世界一に貢献する。
2009年には三塁手に転向し、ゴールデングラブ賞を獲得。
2011年には5度目の打率3割を達成し、初のベストナインを獲得する。
2012年5月には通算2000本安打を達成する。2013年限りで現役を引退した。
遊撃手と三塁手での突出した守備力に定評があるとともに、三振が少なく確実性の高い打撃力と、バントの巧みさも併せ持った名選手である。ヤクルト黄金時代から長年レギュラーとしてチームを牽引し、日本代表でも好守のリーダーとして活躍する史上最高の脇役選手である。
通算成績(実働19年):打率.282、62本塁打、578打点、2133安打、408犠打。ベストナイン1回(2011)ゴールデングラブ賞10回(1997・1999〜2003・2009〜2012)最多犠打5回(1999・2001〜2004) |