皆川睦雄(睦男)
 1935年7月、山形県生まれ。投手。右投右打。背番号49→22。1954年、米沢西(現米沢興譲館)高校から1954年に南海へ入団。
 3年目に初勝利を挙げると、勢いに乗って2桁の11勝を挙げて頭角を現した。
 オーバースローからサイドスローに転向した4年目の1957年には18勝10敗の成績を残し、翌年も17勝8敗、防御率1.83という安定したピッチングを見せた。1959年には10勝を挙げて南海のリーグ優勝と日本一に貢献。1961年にも16勝を挙げてリーグ優勝の原動力となった。
 1962年には19勝4敗で最優秀勝率に輝いている。
 1964年からのリーグ3連覇にも先発投手として貢献し続けた。
 1967年にも18勝7敗で2度目の最優秀勝率を記録。
 プロ入り後、14年間で11度の2桁勝利を挙げながら、20勝の壁を突破できずにいたが、1968年、ついに31勝10敗、防御率1.61という驚異的な成績を残して最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得した。通算200勝もこの年に達成している。
 しかし、350イニング以上投げた酷使がたたってか、翌年は5勝に終わっている。
 1971年、6勝を挙げたものの、その年限りで現役を引退した。
 2011年、殿堂入り。

 ゆったりした無駄のないアンダースロー気味のサイドスローから、大きく変化するシンカーを武器に、ストライクゾーンをいっぱいに使った投球術で、長年に渡って南海の先発投手として活躍を見せた。

通算成績(実働18年):221勝139敗、防御率2.42。1638奪三振。最多勝1回(1968)最優秀勝率2回(1962・1966)最優秀防御率1回(1968)ベストナイン1回(1968)

数々の伝説


 @恩師は審判

 皆川は、プロ3年目でようやく頭角を現している。その年、ある試合で下位打線を相手に投げていたとき、8番打者のところでカウントを0−3にしてしまった。
 皆川は、「どうせ打ってこないだろう」と考えて、カウントだけをとるために、ど真ん中へ軽く直球を投げてみた。
 ところが、審判のコールは何と「ボール」。
 ど真ん中なのにボールと判定された皆川は、当然のようにその審判に抗議する。審判は、こう一喝した。
「気持ちが入ってないからボールだ」
 その審判は、後にパリーグ審判部長を務めた二出川延明。名将三原脩の「ルールブックを見せてみろ」という猛抗議に対して「私がルールブックだ」と追い返したあの名審判である。
 皆川は、その日から一球たりとも手を抜いて投げないように心がけ、南海の中心投手として長年活躍することとなる。


 A肩を壊してサイドスローに転向

 プロ3年目、皆川は、肩を壊した。オーバースローで投げていた皆川は、柚木進コーチからサイドスローへの転向を勧められた。柚木は、現役時代、美しいフォームで通算123勝した名投手だった。
 皆川は、思い切ってサイドスローに転向することを決める。そして、シンカーを覚えた。この転向は、見事に成功する。
 以降、皆川は、大きく変化するシンカーを決め球に、南海で安定した成績を残し続けていくことになる。もし、肩を壊さずにオーバースローで投げていたらどのような通算成績を残していたのだろうか。神のみぞ知る、というところである。


 B梶本隆夫の連続奪三振記録を止める

 1957年7月23日、皆川と投げ合った阪急の梶本隆夫投手は、3回に皆川から三振を奪ったのを皮切りにそのまま9連続奪三振という日本新記録を達成してしまう。6回、打順が一巡りして回ってきた打席には皆川。10連続奪三振を狙って投げ込んでくる梶本から皆川は、何とかセンターフライを放つ。梶本の連続奪三振記録を止めたのは、意外にも投手の皆川だったのである。


 C20勝投手を飛び越えて30勝投手

 皆川は、南海の先発投手としてずっと安定した成績を残し続けてきた。しかし、1959年に38勝を挙げてシーズンMVPになった杉浦忠、1964年に26勝を挙げてMVPになったスタンカのような華々しい活躍に比べると、地味な「ナンバー2」という印象はぬぐえなかった。
 というのも、皆川は、プロ入り後、14年間に渡って1度もシーズン20勝投手になったことがなかったからである。当時は、シーズン20勝以上するのがエースの条件という時代だった。
 そんな皆川が1968年、一気に爆発的な活躍を見せる。20勝を一気に飛び越えて31勝をマークしたのである。最多勝と最優秀防御率のタイトルも獲得した。
 だが、皆川が30勝投手になったものの、南海は、阪急に1ゲーム差で優勝を逃し、2位に終わる。そのため、皆川は、優勝していれば、ほぼ確実だったシーズンMVPを逃すことになった。
 MVPは、優勝した阪急で29勝した米田哲也だった。


 D脚光から離れて

 1968年に生涯最高の成績を残しながら南海が優勝を逃してシーズンMVPに選ばれなかった皆川は、他にも地味な役回りを多く演じている。
 高校時代も3年生のときに地区大会の決勝で敗れて甲子園出場を逃し、甲子園とは無縁のまま高校生活を終える。
 それでも、南海が皆川の素質に目をつけ、皆川は、南海に入団する。しかし、背番号49。あまり大きな期待をされていたわけではないことがうかがえる。
 1961年、1962年にはオールスターゲームに選出されたものの、2年連続登板機会なし、という憂き目を見ている。
 そして、1968年9月22日、皆川は、またしても脚光を浴びる機会を逃す。東映戦に先発して1回先頭打者の大下剛史にヒットを浴びた後、9イニングを無安打無失点に抑えたのだ。つまり、先頭打者の大下さえ抑えていれば、ノーヒットノーランを達成していたことになる。最初の1本のせいで皆川は、それをふいにした。結局、皆川は、ノーヒットノーランを1度も達成することなく、現役を終えている。


 E日本シリーズでも目立たず

 皆川は、日本シリーズにも4回出場している。皆川が活躍していた頃の南海は、パリーグの強豪球団だった。
 1959年に皆川は、初めて日本シリーズに出場するものの、この年は杉浦忠の4連投4連勝があった年で、皆川は第1戦で9回の1イニングだけを投げただけだった。
 1961年は第2戦で中継ぎとして登板したものの、4回4失点で敗戦投手となる。その後、第4戦、第6戦では好投したものの勝敗には関係しなかった。
 1964年は、スタンカが3勝を挙げる活躍を見せた年で、皆川は、第5戦に先発して敗戦投手となり、脇役で終わった。
 そして、1965年は、南海が日本シリーズに進出したものの、皆川に登板機会はなかった。翌1966年は、2試合に先発して2敗。
 
 皆川の日本シリーズ通算成績は0勝4敗、防御率3.72だった。皆川は、好投しても勝利に結びつかず、おいしいところは杉浦忠やスタンカらに持っていかれた。
 パリーグの選手が全国に名を売る最大のチャンス、日本シリーズで、皆川はいつも引き立て役だった。


 F宝刀シンカー

 皆川の宝刀と言えば、シンカー。皆川は、このシンカーを最大の武器として1638奪三振を記録している。
 当時、最強打者だった中西太は、この皆川のシンカーをなかなか打てず、豪快な空振りを繰り返した。中西に、自分が現役時代の後半を手首の腱鞘炎で苦しんだのは「皆川のシンカーのせい」と言わしめるほど、皆川のシンカーは鋭く、そして大きく変化したのである。


 G息の長い活躍

 杉浦忠やスタンカらが一時期に驚異的な成績を残して光り輝いたのに対し、皆川は、地道に毎年毎年勝利を重ねて長い間活躍し続けた。
 皆川は、アンダースローに近いサイドスローである。「故障しやすく、選手生命が短い」と言われる変則的なフォームながら、皆川は、2桁勝利を12回記録し、通算221勝という金字塔を打ち立てた。
 変則的であっても無駄のない体の使い方と、磨きをかけたシンカーと巧みな投球術を駆使した。特にコーナーをいっぱいに使ったコントロールが素晴らしかったという。野村克也も、何もしなくても抑えられた杉浦やスタンカらに比べ「皆川のリードは最もやりがいがあった」と語っている。





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