真弓 明信
 1953年7月、熊本県生まれ。右投右打。内野手。外野手。背番号2(太平洋)→42(太平洋)→7(阪神)。小学3年生のとき、福岡県に移住し、柳川商業高校から社会人野球の電電九州に進む。いきなりレギュラーとして都市対抗野球に出場して注目される。社会人1年目にしてプロから指名され、1973年、ドラフト3位で太平洋(のちクラウン)に入団。
 1年目の出場2試合目で平凡なゴロをファンブルしたのがきっかけでチームがサヨナラ負けを喫し、2軍落ち。以後、背番号を2から42に格下げになるなど、冷遇を受ける。
 5年目の1977年にようやく頭角を現し、116試合に出場。1978年にはレギュラーに定着して打率.280、8本塁打、34盗塁という成績を残し、ベストナインに選出される。
 しかし、在籍していたクラウンが西武に身売りすることになり、真弓は、田淵幸一らとの大型トレードによって阪神に移籍する。
 真弓は、阪神で内外野のどこでも守れる1番打者としてレギュラーに定着。阪神1年目の5月にサイクルヒットを記録した真弓は、阪神2年目の1980年には1番打者ながら29本塁打を放ってセリーグを代表するスラッガーとなる。
 1983年には初の3割を記録すると共に、打率.353、23本塁打、77打点で首位打者のタイトルを獲得し、ベストナインにも選ばれた。
 1985年には打率.322、34本塁打、84打点という自己最高の成績を残して阪神のリーグ優勝に大きく貢献した。、日本シリーズでも真弓は2本塁打を放つ活躍を見せ、阪神は4勝2敗で日本一となった。
 1992年からは主に代打での出場となったものの、1994年には代打でシーズン30打点という日本記録を樹立。
 しかし、1995年は、度重なる故障に悩まされ、その年限りで現役を引退した。 
 2009年からは阪神の監督として指揮を執る。

 バットを顔の前に立てて左肩を開いた構えからのヘッドを効かせた柔らかいスイングで、本塁打も打率も稼げる脅威の1番バッターだった。晩年は、勝負強さを生かして代打で素晴らしい活躍を見せている。また外野も内野も守れる器用な守備と俊足を生かした走塁にも定評があり、甘いマスクでファンから大きな人気を得た。

 通算成績(実働23年):打率.285、292本塁打、886打点、1888安打。200盗塁。首位打者1回(1983)ベストナイン3回(1978・1983・1985)

数々の伝説


 @「ジョー」という愛称

 真弓という名前は、アメリカ人には発音が難しいという。真弓は、太平洋に入って1年目の夏、ファームのチームが参加するアメリカの教育リーグにいた。
 しかし、アメリカ人は、「まゆみ」がうまく言えない。そのため、チームの監督をしていた和田博実がアメリカで人気のあった『あしたのジョー』の主人公、矢吹丈からとって「ジョー」と名づけた。真弓の風貌がジョーによく似ていたためであり、非常に呼びやすかったからでもある。その愛称は、真弓の現役時代を通じて使われることとなった。


 A田淵幸一とのトレードで阪神に移籍

 プロ6年目となる1978年の真弓は、シーズンを通してレギュラーに定着し、打率.280を残して規定打席にも到達した。真弓の前途がようやく開けてきた矢先、九州のクラウンライターは、所沢の西武に身売りされることが決まる。
 西武は、凋落していたチーム立て直しのために、柱となるスターを必要としていた。
 その当時、阪神も、ミスタータイガースの名を欲しいままにしていた田淵幸一を放出しての補強を進めていた。
 西武は、そんな田淵幸一の獲得に乗り出す。すると、阪神は、交換相手として真弓を指名してきた。阪神は、若手の遊撃手を探していたのだ。
 トレードは、阪神の田淵幸一捕手・古沢憲司投手に対して、西武の真弓・竹之内雅史外野手・若菜嘉晴捕手・竹田和史投手の2対4という大掛かりなものとなった。
 阪神ファンは、このとき、田淵の放出に対して猛反発をしたという。しかし、幸いなことに阪神は、後に不動の1番打者となる真弓を得ていた。
 もし、このトレードがなければ、1985年の日本一はなかっただろう。なぜなら田淵は、その前年の1984年限りで引退してしまっているからである。


 Bゴルフのショットから本塁打量産へ

 太平洋・クラウン時代の真弓は、本塁打を量産できる打者ではなかった。クラウン在籍最後の1978年も真弓は、規定打席に到達しながら8本塁打しか放っていない。
 阪神に移籍した1979年に13本塁打を放って初めて2桁に乗せたものの、ここまでの通算本塁打数はわずか28本だった。
 この頃、真弓は、オフの時間を利用してゴルフをするようになっていた。しかし、なぜかまっすぐ飛ばず、いつもスライスしてしまう。
 1979年のオフ、真弓は、ついにまっすぐ遠くへ飛ばすコツをマスターする。そのコツは、ドライバーのヘッドの使い方にあったのだという。
 このことは、真弓のバッティングスタイルまでも変えてしまう。バットのヘッドの使い方にも応用させて飛距離を伸ばしたのだ。バットもそれまでのツチノコ型バットから細いものに変え、体を開いてバットを遅れ気味に出す打法に変える。効果はすぐに出た。
 1980年の真弓は、1番打者ながら29本塁打を放つ。これは、セリーグ本塁打ランキング5位の成績だった。


 C史上最強の1番打者

 真弓は、1981年に29本塁打すると、1985年には自己最高の34本塁打を放っている。それまで、1番打者としてこれほど本塁打を量産した選手はおらず、真弓は「史上最強の一番打者」「脅威の核弾頭」と呼ばれて恐れられた。
 そんな真弓が1番打者として初回先頭打者本塁打を放ったのは実に通算41回。これは、福本豊の43回に次いで歴代2位の大記録である。
 さらに真弓は、1980年と1986年の2回に渡って5試合連続本塁打を記録してもいる。真弓は、それまでの1番打者の常識を大きく覆したバッターだった。


 D阪神の日本一に貢献

 1985年の阪神は、強かった。4月17日の巨人戦でランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布による奇跡のバックスクリーン3連発によって勢いづいた阪神は、打ちまくってペナントの主導権を握っていく。
 真弓も、これまで以上のハイペースで本塁打を積み重ねていた。
 優勝を決める9月27日の試合でも本塁打を放った真弓は、このシーズン打率.322、34本塁打、84打点という自己最高の成績を残す。
 他にもバースが打率.350、54本塁打、134打点、掛布が打率.300、40本塁打、108打点、岡田が打率.342、35本塁打、101打点と、歴史に残る大打者たちが軒並み自己最高レベルの成績を残した。
 これだけの猛打が爆発すれば優勝は、当然の結果だった。しかも、名門阪神タイガースにとってこれが21年ぶりのリーグ優勝である。
 日本シリーズでも打ちまくった阪神は、真弓が以前在籍していた西武を4勝2敗で破って日本一に輝く。真弓は、2本塁打を放つ活躍を見せ、優秀選手賞に輝いている。


 Eシーズン代打最多打点記録

 真弓は、1990年代に入ると、代打での出場が増え、1992年以降は主に代打生活が続いていた。好打者であっても、代打稼業で成功することは難しいと言われているが、真弓は当てはまらなかった。代打でも好成績を残していた。
 1994年、真弓は、代打で華々しい活躍を見せる。6月1日には4−6とリードされていた広島戦で代打逆転満塁本塁打を放った。
 この年、真弓は、打率.270、2本塁打、30打点を記録する。
 30打点は、1941年の宮川孝雄、1985年の平田薫が記録したシーズン代打24打点という日本記録を6打点も更新する快挙だった。


 F最後まで現役にこだわり

 1995年、阪神大震災によって神戸の自宅からの交通が麻痺し、真弓は球団の合宿所で暮らすこととなる。そこでの慣れない生活のせいか、真弓はシーズン前に右太腿を痛め、6月には左太腿を痛める。さらに8月には右ふくらはぎまで。
 真弓は、この年、打率.222、本塁打0でシーズンを終える。阪神は、そんな真弓に引退試合を用意し、胴上げも行った。
 しかし、真弓は、現役続行にこだわった。好きな野球をできうる限り現役でプレーし続けたい、という希望からだった。それは、「年俸はいくらでもいいからもう1年野球をさせてくれ」と球団に頼んで実現させた川藤幸三や、「俺を必要としている球団があれば、どこでだってプレーし続ける」と最後まで自由契約のまま現役を終えていった落合博満と共通する部分がある。
 結局、真弓の獲得に動く球団はなかった。納得した真弓は、11月11日、阪神での現役引退を表明した。



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