松永浩美 
 1960(昭和35)年、福岡県生まれ。右投左右打。内野手・外野手。背番号48(阪急)→8(阪急)→2・02(阪神)→3(ダイエー)。小倉工を中退して練習生として1978年に阪急に入団。1979年に正式に選手登録される。
 入団1年目にスイッチヒッターに転向。
 3年目に73試合出場ながら打率.326を残してレギュラーを獲得し、名スイッチヒッターとして阪急の打線の核弾頭となった。
 1983年に21本塁打を放つと、1984年には打率.310、19本塁打、70打点の成績で阪急のリーグ優勝に貢献する。
 1985年には打率.320、26本塁打、87打点という自己最高の成績をマークしている。そして、この年、38盗塁で盗塁王のタイトルを獲得する。
 1988年には打率.326を残しながら高沢秀昭にわずか1厘差で首位打者を逃した。このとき、松永は、ロッテから四球攻めに遭い、11打席連続四球、10打席連続敬遠四球の日本記録を樹立している。
 1991年には打率.314を残したものの1位の平井光親にわずか4毛差で首位打者を逃すという不運もあった。
 1993年には阪神に移籍したものの、故障に苦しみ。その年のオフに今度は初めて施行されてFA制度を行使してダイエーに移籍する。ダイエー移籍1年目の1994年には打率.314を残して自身7度目の打率3割を達成する。
 1998年にダイエーを自由契約となった後、37歳という高齢で大リーグへ挑戦したが、大リーガーになることはできず、そのまま引退した。
 2006年11月、マスターズリーグで96本目の安打を放ち、史上初の名球会名誉会員となった。

 スイッチヒッターでありながら左右両打席で本塁打を打てる中距離ヒッターで、3割以上を7回記録するなど、安定した成績を残した。
 2000本安打まであと96本と迫っていたところが惜しまれる。

 通算成績:打率.293、203本塁打、855打点。1904安打。239盗塁。盗塁王1回(1985)最高出塁率(1989)サイクル安打2回(1982・1991)3試合連続先頭打者本塁打(1993)10打席連続四球(1988)ベストナイン5回(1988〜1991・1994)ゴールデングラブ賞4回(1984・1989〜1990・1994)

数々の伝説


 @天才スイッチヒッター

 松永は、入団1年目にスイッチヒッターに転向し、3年目にはそれをすっかりマスターして73試合出場ながら打率.326でレギュラーを獲得する。
 松永が台頭するまでは、スイッチヒッターと言えば、左右の投手に合わせて打席を切り替え、打球をミートして内野の間を抜いたり、転がして足で安打を稼ぐタイプが多かったのだが、松永の場合は、左右両打席で本塁打を打てる日本プロ野球初の大型スイッチヒッターだった。
 1983年にシーズン21本塁打を放つと、その後は、左右両打席で高いアベレージを残して本塁打も放てるバッターとして重宝された。
 松永は、1試合左右両打席で本塁打を通算6回記録している。もちろん、これは日本記録である。


 A0−3から逆転サヨナラ満塁本塁打

 1983年8月31日、阪急×ロッテ戦が行われ、9回表まで終わった時点で3−0でロッテがリードしていた。
 9回裏の最後の阪急の攻撃は、満塁の場面で松永に打席が回ってきた。
 松永は、ロッテの中居投手から本塁打を放ち、4−3の逆転サヨナラ満塁本塁打となった。


 Bサイクル安打2度

 1982年10月8日、松永は、南海戦でサイクル安打を記録する。しかも単打は、外野への安打と内野安打を放っており、本塁打、三塁打、二塁打、外野への単打、内野への単打という5種類の安打を記録することとなった。
 その9年後の5月24日、ロッテ戦でも第4打席で最も難しい3塁打を放って2度目のサイクル安打を達成する。
 サイクル安打を2度記録した選手は、ローズ(横浜)の3回に次いで、藤村富美男と並んで歴代2位の記録である。


 Cサヨナラランニング本塁打

 1984年9月16日、首位を走る阪急は、ロッテとのダブルヘッダーを迎える。
 その第1試合は、4回裏に阪急が2点を先制すると、6回表にロッテが同点に追いつき、6回裏に阪急が3点を勝ち越すと、8回表に今度はロッテが3点を奪って5−5の同点に追いつく激しい展開となる。
 そのまま試合は、9回裏に進み、1死無走者で松永が打席に入る。松永は、ロッテの右田一彦が投げた直球を右中間を抜ける。外野がクッションボールの処理をもたつく間に松永は、2塁を蹴り、その勢いで3塁も蹴った。そして、本塁もセーフとなり、松永の一打は、劇的なサヨナラランニング本塁打となった。これは、プロ野球史上4人目の快挙だった。


 D阪急のリーグ優勝に貢献

 1984年の阪急は、ブーマーが三冠王を獲得し、今井雄太郎が21勝を挙げるなど、派手な活躍が目立ったが、当時はまだ若手だった松永も、打率.310、19本塁打、70打点、21盗塁という安定した活躍を見せる。さらに、守備でも三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞し、走攻守ともにチームの要として阪急をリーグ優勝に導く。
 松永は、日本シリーズでも好調を持続し、7試合で29打数11安打、打率.423という驚異的な成績を残したが、チームは広島に3勝4敗で敗れている。


 E11打席連続四球、10打席連続敬遠四球の日本記録

 1988年、松永は、ロッテの高沢秀昭と首位打者を争っていた。
 10月22日のロッテ戦で松永は、第1打席、第2打席と連続安打で打率.327の高沢に1厘差まで詰め寄ったため、第3打席は警戒されて四球となった。第4打席と第5打席は、敬遠四球で3打席連続四球となった。
 10月23日は、ロッテとのダブルヘッダーが組まれていた。
 1試合目で松永は、高沢に首位打者を獲らせようとするロッテ投手陣から敬遠攻撃を受け、4打席連続四球で7打席連続四球となる。
 さらに2試合目も、4打席連続四球で11打席連続四球となった。
 11打席連続四球は、日本新記録であり、10打席連続敬遠四球も日本新記録であった。松永は、最終打席で敬遠球に3度バットを投げつけて打とうとする抗議を行ったが、バットにボールは当たらず三振に倒れ、1厘差で首位打者を逃している。
 ちなみに1試合4敬遠四球も日本記録である。


 F2度目も僅差で首位打者を逃す

 1988年にわずか1厘差で首位打者を逃した松永に再び首位打者のチャンスが訪れたのは、1991年である。
 この年、松永は、全試合に出場して打率.3140を残すのだが、ずっと規定打席に足りていなかったロッテの平井光親がぎりぎりのところで規定打席403に到達し、打率.3144で首位打者を獲得する。
 この年の松永は、568打席を記録し、平井との打席数の差は、実に165もあったのだが、ルールには逆らうことができず、松永は、わずか4毛差でまたしても首位打者を逃す。
 とはいえ、1988年も1991年も、一切逃げることなく全試合に出場した松永のチームに貢献する姿勢は、首位打者以上の価値があったと言っても過言ではない。


 GFA制度初年度に行使

 1993年、松永は、阪神に移籍したが、故障に泣き、打率.294を残したものの、80試合出場にとどまった。そして、シーズン途中には故障続きから脱却するため、背番号を「2」から史上初めて「02」に変更している。「02」には「鬼(02)のように強く」という意味が含まれていたと言われている。
 そういう事情もあってか、この年からFA制度が施行されると、それをすぐに行使。
 強力打線を中心にしたチーム作りを進めるダイエーに移籍することが決まり、FA移籍第1号になった。
 そして、移籍1年目に打率.314、55打点という活躍をしている。


 H3試合連続初回先頭打者本塁打

 1993年8月20日のヤクルト戦で松永は、1回表に先頭打者として本塁打を放つと、翌8月21日のヤクルト戦でも1回表に先頭打者本塁打を放つ。
 そして、8月22日のヤクルト戦では、1回表に先頭打者として打席に立つと、ヤクルト先発の荒木大輔投手からバックスクリーンへ豪快な本塁打を放つ。
 これは、日本初というだけでなく、世界初となる3試合連続先頭打者本塁打だった。松永がこれだけの活躍をしたものの、当時の阪神は弱小で、このヤクルト3連戦を1勝2敗と負け越している。


 I名球会初の名誉会員

 名球会は、昭和生まれでプロ野球において通算200勝、もしくは通算2000本安打を達成した選手に入会資格があり、通算1904安打で終わった松永は、わずか96本差で入会資格が得られなかった。
 しかし、1990年代後半から日本人選手の大リーグ流出が進み、さらに2001年からプロ野球OBによるマスターズリーグが創設となったこともあって、名球会の入会資格も改訂が行われる。マスターズリーグについては、現役の通算成績にマスターズリーグでの成績を加えて通算200勝、通算2000本安打に到達した選手は、名誉会員の資格が与えられることになったのである。
 松永は、マスターズリーグで2006年11月25日に96本目の安打を放って合計2000本安打とし、史上初の名球会名誉会員となった。





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