松岡 弘
 1947年7月、岡山県生まれ。投手。右投右打。背番号25→17。倉敷商業高校から社会人野球の三菱重工水島へ進み、頭角を現す。
 1968年、ドラフト5位でサンケイ(後のヤクルト)へ入団する。2年目の1969年に8勝10敗の成績を残して頭角を現す。
 1971年には14勝15敗、防御率2.52で初の2桁勝利を挙げる。そして、1972年にシーズン17勝へ伸ばすと、1973年には21勝18敗、防御率2.23の好成績を残す。
 1974年には17勝15敗、1975年には13勝9敗、1976年には17勝13敗と6年連続2桁勝利を挙げ、エースとして君臨する。
 そして、1978年には16勝11敗2セーブを記録してヤクルトのリーグ初優勝に大きく貢献する。阪急との日本シリーズでも4試合に登板して2勝2セーブという完璧な成績で日本一に貢献する。この年には沢村賞にも輝いている。
 1980年には13勝6敗、防御率2.35の好成績を残して最優秀防御率のタイトルを獲得する。
 1981年にも12勝、1983年にも11勝を挙げたが、1984年は1勝、1985年には0勝に終わり、通算200勝まであと9勝で現役を引退した。1984年には通算2000奪三振を達成している。

 細身の長身から投げ降ろす快速球と大きなカーブで打者を手玉に取り、長年ヤクルトのエースに君臨した。長い腕をしならせる直球は、好調時には対戦チームが手も足も出ない状況追い込んだ。

通算成績(実動18年)191勝190敗、防御率3.33、2008奪三振。沢村賞1回(1978)最優秀防御率1回(1980)

数々の伝説


 @高校では星野仙一の後継エース

 松岡は、倉敷商業高校で星野仙一の1年後輩だった。当然、星野は、エースであり、松岡は、遊撃手として活躍していた。
 しかし、星野が卒業した時、倉敷商では星野の後を継げるような投手が不在だった。そのため、松岡は、自ら投手に転向することを決断し、エースに登り詰める。
 そして、松岡は、関西高校の森安敏明、岡山東商業高校の平松政次とともに岡山三羽ガラスという異名をとる。この3人は、のちに全員プロ入りしてエース級に登り詰める活躍を見せた。松岡は、社会人野球の三菱重工水島に進んで実力を伸ばしてから1968年にドラフト5位でサンケイに入団することになる。


 A8回2死まで完全も敗戦投手

 1972年8月17日の巨人戦に先発した松岡は、1回から絶好調で、完璧な投球を見せて最強の巨人打線を打ち取って行く。8回が始まった時点では2−0でヤクルトがリードを奪い、松岡は、あと6人で完全試合という投球だった。
 松岡は、その後、8回2死まで順調にアウトを奪い、完全試合まであと4人にまで迫る。しかし、松岡は、次の打者槌田誠にセンター前へ痛恨のポテンヒットを浴びて夢を打ち砕かれた。
 しかも、それだけでは終わらず、その次の打者上田武司にはレフトスタンドへ見事な同点2ラン本塁打を浴びてしまう。
 さらに、松岡は、9回にも1点を失い、あと4人で完全試合というところから2−3とひっくり返され、よもやの敗戦投手となったのである。


 Bシーズン21勝

 1971年から14勝、17勝と勝ち星を伸ばした松岡は、1973年、ついに20勝の壁を破り、21勝18敗、防御率2.23の好成績を残す。
 この年、ヤクルトは、62勝で4位に終わったが、松岡は、先発にリリーフに獅子奮迅の働きを見せ、1人でチームの勝ち星の3分の1以上を稼ぎ出す大車輪の活躍を見せたのである。
 しかし、松岡は、シーズン21勝しながら24勝を挙げた江夏豊には及ばず、最多勝を逃す。また、奪三振では江夏を上回る218奪三振を記録したが、こちらも高橋一三の238奪三振に及ばず、最多奪三振を逃している。


 C沢村賞

 松岡は、弱小チームのエースとして毎年安定した成績を残していたが、それが最も報われたのが1978年である。
 この年、ヤクルトは、巨人と優勝争いを繰り広げ、打線では大杉勝男、若松勉、ヒルトン、マニエルらが打ちまくり、投手も松岡を中心に安田猛、鈴木康二朗、井原慎一朗らが安定した投球を見せた。
 松岡は、16勝11敗2セーブの成績を残して、ヤクルトのリーグ優勝の原動力となった。勝利数は、野村収の17勝に次ぐリーグ2位の成績だった。そして、11試合完投、リーグ最多の4完封という先発投手としての功績が認められ、沢村賞に輝くのである。


 D球団初優勝の胴上げ投手

 1977年時点で、まだセリーグの優勝を果たしたことがないのは、ヤクルトだけだった。
 しかし、広岡監督のチーム改革によって、かつてない強さを手に入れたヤクルトは、1978年、ついにリーグ優勝できるチャンスをつかむ。そして、1978年10月4日、松岡は、勝てば球団創設初の優勝という中日戦に先発することとなった。
 ヤクルトは、序盤から打線が爆発し、1回に4点を先制すると、2回には3点、3回には1点を追加し、大量リードを奪って優位に試合を進める。
 松岡は、終始安定した投球で9回を5安打完封し、9−0で圧勝したヤクルトは、球団初優勝を果たす。松岡は、その記念すべき試合の胴上げ投手に輝いたのである。


 E日本シリーズで好投

 1978年、ヤクルトの日本シリーズの対戦相手は、日本シリーズ3連覇中の阪急だった。
 松岡は、第2戦に先発すると6回1/3を5失点ながら打線の援護に助けられて10−6で勝利する。
 第4戦では9回裏にリリーフとして登板して1回を無失点に抑えてセーブを挙げる。さらに、第5戦もリリーフで7回途中から登板し、2回1/3を1失点に抑えて逃げ切り、2試合連続セーブを記録する。
 そして、松岡は、最終第7戦の先発投手に抜擢され、序盤からスコアボードに0を並べる好投を続ける。しかし、6回に味方の大杉勝男がレフトポール際を通過する「疑惑の本塁打」を放ち、上田監督の抗議が長引いて1時間19分の中断に巻き込まれる。しかし、松岡は、後に日本シリーズ史上に残る伝説となった騒動にも動じず、9回を136球で完封勝利を挙げ、リーグ優勝時に続いて胴上げ投手となった。
 シリーズMVPは、大杉が獲得したが、松岡は、最優秀投手に輝いた。



 F最優秀防御率

 松岡は、1978年にリーグ優勝の原動力となった功績で沢村賞に選ばれたものの、それ以外の個人タイトルは獲得しておらず、数字で決まるタイトルはまだ獲得していなかった。
 そんな松岡が最優秀防御率のタイトルを獲得したのは、1980年である。日本一の翌年の1979年、先発に抑えにと酷使された松岡は、防御率3.96と不振にあえいだが、1980年はほぼ先発として負担が軽くなったことで、好調時の投球が蘇る。松岡は、シーズンを通して安定した投球を見せて、13勝6敗、防御率2.35の好成績を残す。
 その防御率は、怪物として騒がれた江川卓の2.48をも上回り、松岡は、初の最優秀防御率のタイトルを手にしたのである。


 G200勝まであと9勝で引退

 1983年にシーズン11勝を挙げた松岡は、通算190勝にまで積み上げ、通算200勝達成は確実かと思われた。
 しかし、1984年は、調子を大きく崩して1勝に終わる。首を痛めたのが原因と言われている。
 翌1985年に復活をかけたものの、0勝に終わり、通算191勝で現役を引退した。
 通算190勝を超えながら、200勝に届かなかったのは、通算193勝の長谷川良平に次いで史上2人目である。


 H通算2000奪三振達成

 松岡は、通算200勝にこそ届かなかったものの、通算200勝に匹敵する大記録を残している。1984年9月22日の大洋戦の5回に田代富雄から三振を奪い、通算2000奪三振を記録したのである。
 松岡は、コントロールで勝負するよりも、荒れ球の快速球とカーブのコンビネーションで三振を奪って行く投手で、シーズン100奪三振以上は、9年連続を含む計12回に及ぶ。その裏でシーズン最多四球にも3度輝いており、1試合最多四球10のセリーグ記録も作っている。
 四球を出しても、三振を奪って切り抜けるという豪快な投球スタイルによって、積み上げた通算奪三振は2008である。





(2009年9月作成)

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