松井 稼頭央
 1975年10月、大阪府生まれ。内野手。右投左右打。背番号32→7(西武)→25(メッツ)→16・7(ロッキーズ)→3(アストロズ)→32(楽天)→7(楽天)。旧名:松井和夫。名門PL学園高校で速球派投手として活躍し、2年時には春の甲子園に出場するも3回戦敗退。1994年にドラフト3位で西武ライオンズに入団し、すぐ内野手に転向。
 1995年に1軍に上がって69試合に出場。この年、右投手から打てなかったことがきっかけとなってスイッチヒッターに転向する。
 1996年にはリーグ2位となる50盗塁を成功させてレギュラーに定着する。
 1997年に62盗塁を決めて初の盗塁王を獲得し、打率も.307で初の3割台に到達する。西武もこの年、3年ぶりのリーグ優勝を果たした。
 1998年には43盗塁で2度目の盗塁王になるとともに、打率.311、リーグ最多の92得点を稼ぐなど、走好守に渡って活躍し、西武を2年連続リーグ優勝に導く。その功績が高く評価され、シーズンMVPにも選出されている。
 1999年は32盗塁、178安打で3度目の盗塁王と初の最多安打のタイトルを獲得。打率もリーグ2位の.330を記録する。
 2000年6月7日の近鉄戦ではサイクルヒットを達成する。
 1997年から2002年まで6年連続3割、1996年から2003年まで8年連続全試合出場を達成した。
 2002年には2度目の最多安打を達成するとともに、打率.332、36本塁打、33盗塁で史上8人目のトリプルスリーを達成し、西武の圧倒的なリーグ優勝の原動力となった。
 2004年には大リーグのメッツに移籍したが、腰の故障もあって打率.272、7本塁打に終わる。
 2006年途中にはロッキーズに移籍し、2007年にはレギュラーとして打率.288、32盗塁を残す活躍を見せる。
 2008年にはアストロズに移籍して打率.293、20盗塁の活躍を見せ、2009年8月には日米通算2000本安打を達成した。
 2011年には日本球界に復帰して楽天でプレーし、2013年には楽天の日本一に貢献した。
 2015年7月には日本での通算2000本安打を達成した。

 左右両打席で長打を放てる打撃と、成功率の高い盗塁技術、そして華麗な守備、と走好守が完璧なまでに揃ったプレーヤーである。

 通算成績(2016年末現在):(日本:15年)打率.292、199本塁打、825打点。362盗塁。2068安打。盗塁王3回(1997〜99)最多安打2回(1999・2002)ベストナイン7回(1997〜2003)ゴールデングラブ賞4回(1997・1998・2002・2003)シーズンMVP1回(1998)
(大リーグ:7年)打率.267、32本塁打、211打点、615安打、102盗塁。
(日米通算)打率.286、231本塁打、1036打点、2683安打、464盗塁。
数々の伝説

 @高校時代は速球派投手

 松井は、小学生時代から投手としてプレーしていた。PL学園高校でも1年秋の新チーム結成と同時にエースナンバー1を着けて活躍。しかし、故障がちだったためか、登板数は少なかった。強肩のため、速球派で「奪三振マシン」と恐れられたという。
 1992年には春のセンバツ甲子園大会にも出場。惜しくも3回戦で東海大相模に敗れている。 
 しかし、プロ入りと同時に野手として育てられることが決まり、強肩・俊足を生かして遊撃手に転向。3年後の1997年にはゴールデングラブ賞と盗塁王を獲得することになる。


 A小坂との壮絶な盗塁王争い

 1998年、パリーグの盗塁王争いは壮絶なものとなった。10月10日終了時点で西武の松井の盗塁数は41。その上に盗塁数43でロッテの小坂誠がいた。差はわずかに2。
 西武とロッテは、10月10日から3連戦を行い、全日程を終了することになっている。
 10月11日と12日のラスト2試合は、盗塁王のタイトルを巡って大きく揺れ動いた。
 11日は、松井が4回盗塁を試みて成功1回、失敗3回、小坂は、2回盗塁を試みて2回失敗という結果に終わっている。このとき、松井が記録した1試合3盗塁死は、日本タイ記録となった。
 10月12日の試合の前までの松井の盗塁数は42。小坂は43のまま。
 松井は、第2打席で2塁打を放ち、3盗を試みたものの、完全に投手に読まれており、2・3塁間に挟まれて盗塁死する。一方の小坂も第3打席で2塁打を放ち、3盗を試みたものの、これも投手に完全に読まれて盗塁死。
 そして、7回表、小坂は、西武の芝崎和広投手からレフト前ヒットを放ち、1塁に出た。
 2盗を決め、松井に2差を付ければ、小坂の盗塁王はほぼ確定し、単独盗塁王にも一歩近づく。
 しかし、芝崎は、ここで1塁への牽制を悪送球。1塁の高木は、後逸し、1塁側のファールグラウンドを転がっていった。小坂は、2塁へ走ろうとしたが、すぐ1塁に戻った。1塁コーチの制止で思いとどまったと言われている。
 小坂に2盗のチャンスは残ったのである。
 しかし、芝崎は、ここで思いもよらぬ作戦を実行する。ボークである。ボークになれば、打者との勝負以前に1塁走者は2塁へ自動的に進まなければならなくなる。もちろん、盗塁にはならない。
 芝崎のボークによって、小坂は、盗塁をすることができないまま2塁ベースに立つことになった。
 ロッテの近藤昭仁監督は、すかさず抗議に出る。故意のボークは、敗退行為(野球協約違反)の疑いがあるからだ。
 だが、証拠がない以上、判定が覆ることはない。試合再開後、小坂は、完全に読まれている3盗を試みて失敗し、その日2個目の盗塁死をする。小坂の盗塁数は、依然43のままである。
 7回裏、西武は3点を奪って同点に追いつき、さらに松井がヒットを放って1・2塁とした。松井が小坂に追いつくには2塁走者との連携でダブルスチールが必要である。当然のように行われたダブルスチールは、キャッチャーの3塁送球が少しそれたことで成功する。
 松井の盗塁数は43。これで小坂と同数である。
 試合は、その後、9回裏に小坂が犠牲フライを放って5−4でロッテが勝ち、松井と小坂の盗塁王争いも結末を迎えた。2人は、盗塁43個で盗塁王を分け合うことになった。
 翌朝の新聞は、こぞってこの盗塁王争いを大きく取り上げ、社会問題となった。


 BシーズンMVP

 1998年は、西武が前年の王者の力を見せつけ、2位に3.5ゲーム差をつけてパリーグ2連覇を果たした。
 松井は、打率.311(5位)、9本塁打、58打点、43盗塁という活躍で盗塁王のタイトルを獲得した。179安打は、イチローの181安打に及ばず惜しくも2位となったが、92得点はリーグ1位であった。さらに、ゴールデングラブ賞を獲得する守備力も評価され、シーズンMVPに選出されている。


 Cシーズン盗塁成功率100%

 松井は、1997年の62盗塁での盗塁王を筆頭に3度も盗塁王に輝いた俊足の持ち主であるが、2001年には新たな快記録を達成している。
 シーズン中、盗塁を全26回試みて、すべて成功させてしまったのだ。2リーグ制になって以降、シーズン20盗塁以上していて盗塁死を1度もしなかったのは松井が初めてである。
 この高い成功率を支えるのは、走り始めてからトップスピードに移るまでの速さ。瞬発力は、30メートル3秒6と驚異的である。そして、投手の癖を盗む上手さも挙げられる。


 D2試合連続サヨナラ本塁打

 2002年5月10日、オリックス戦は、緊迫した投手戦となり、5回に1点を先制された西武は。8回裏に同点に追いつく。
 1−1のまま9回裏1死で打席に立った松井は、萩原淳投手の緩いシュートをレフトにソロ本塁打し、2−1でサヨナラ勝ちした。自身初のサヨナラ本塁打で、松井は翌日のスポーツ紙をすべて買って読みあさったという。
 そして5月11日のオリックス戦も接戦となり、1回に西武が2点を先制すると、5回にオリックスも2点を返して同点とし、2−2のまま延長戦に入った。
 10回裏無死一塁で打席に立った松井は、今村文昭投手のスライダーを豪快に左中間スタンドに運ぶ2ラン本塁打を放ち、4−2のサヨナラ勝ち。
 2試合連続のサヨナラ本塁打は、史上7人目の快挙となった。


 E連続出場記録

 1996年から松井は全試合出場を続けており、2002年5月15日の近鉄戦では899試合連続出場となり、ついに飯田徳治が1950年から1956年にかけて作った898試合連続出場のパリーグ記録を46年ぶりに更新した。
 ただ、飯田徳治は、連続出場記録を継続したまま国鉄に移籍し、1958年まで1246試合連続出場まで伸ばしている。
 さらに、その上の歴代1位にはあの衣笠祥雄(広島)の2215試合連続出場がある。


 Fスイッチヒッターで史上初の3割30本30盗塁

 松井がスイッチヒッターとなったのはプロ入り3年目の1996年からである。それは、右打席ではプロの右投手から全くと言っていいほど打てなかったことに起因している。松井は、1995年からスイッチヒッターとなるために左打席の練習を積み、1996年からスイッチヒッターとして打席に立つ。
 最初はぎこちなかった松井の左打席だが、弛まぬ研究と努力によってその素質は年々磨かれていく。本塁打数を着実に伸ばし、2002年にはついに左打席で27本塁打を放つまでになった。
 このことは、そのままシーズン成績につながっていった。打率.332、36本塁打、33盗塁。トリプルスリーと呼ばれる、史上8人目の3割30本30盗塁の達成である。しかも、スイッチヒッターとしては史上初の快挙だった。
 さらに、この年、松井は、シーズン88長打という日本新記録を樹立している。1950年に小鶴誠が達成した85長打の記録を52年ぶりに更新した。チームがリーグ優勝したのも当然と言えば当然だろう。


 G日本人3人目の日米通算2000本安打達成

  大リーグ移籍後の松井は、度重なる故障により安定した成績を残せないでいたが、2007年に打率.288を残すと、2008年に打率.293を残すなど本来の調子を取り戻す。
 そして、2009年8月15日、ブルワーズ戦に先発出場した松井は、3回の第1打席でバーンズ投手から遊撃内野安打を放ち、日米通算2000本安打を達成する。内訳は、日本で1433安打、大リーグで567安打である。
 日本人選手の日米通算2000本安打は、イチロー・松井秀喜に次いで史上3人目の快挙だった。




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