松井 秀喜
 1974年6月、石川県生まれ。右投左打。背番号55。外野手。星稜高校では大型三塁手として1年生から4番を打つ。1年生の1990年、夏の甲子園では1回戦敗退、1991年の二年夏の甲子園ではベスト4。1992年春はベスト8ながら大会3本塁打を記録している。同年夏の甲子園では5打席連続敬遠で2回戦敗退した。4度の甲子園出場、高校通算60本塁打の記録を残してプロ4球団の競合の末、ドラフト1位で1993年、巨人に入団。
 1993年に11本塁打を放ち、1994年からはレギュラーに定着。その年の巨人のリーグ優勝と日本一に大きく貢献した。
 1996年には打率.314、38本塁打、99打点でタイトルこそなかったものの、メイクドラマと言われた大逆転リーグ優勝に貢献し、セリーグ最年少シーズンMVPを獲得している。
 1998年には打率.292、34本塁打、100打点で本塁打・打点の2冠王となった。
 2000年には打率.316、42本塁打、108打点で本塁打・打点の2冠王に輝き、巨人も圧倒的な強さでリーグ優勝した。日本シリーズでも松井が3本塁打して日本一を勝ち取っている。松井はシーズンMVPと日本シリーズMVPの両方を手にした。
 2001年には打率.333で初の首位打者に輝いている。
 2002年には打率.334、50本塁打、107打点で本塁打王・打点王を獲得し、打率も2位となった。3度目の2冠王獲得となった松井の活躍でチームもリーグ優勝し、松井はシーズンMVPに選ばれている。日本シリーズでも西武を4連勝で圧倒して日本一になった。
 2003年から大リーグのヤンキースに移籍。1年目から全試合に出場し、打率.287、16本塁打という成績を残してチームをワールドシリーズに導いた。ワールドシリーズでも本塁打を放つ活躍を見せたが、敗れている。
 2004年には打率.298、31本塁打、108打点と1年目を上回る成績でチームをプレーオフに導き、2005年には打率.305とメジャー移籍後初めて3割台に乗せた。
 2006年は、左手首を骨折するという負傷で戦列を離れたものの、シーズン終盤に復帰して活躍した。2007年は、25本塁打を放っている。
 2009年には、シーズン28本塁打を放つ活躍を見せた後、ポストシーズンでは華々しい活躍によってチームを世界一に導き、日本人初のワールドシリーズMVPを獲得する。
 しかし、その年のオフにエンゼルスへ移籍し、21本塁打を記録。2011年にはアスレチックスでプレーした。
 2012年にはレイズで2本塁打に終わり、現役を引退した。

 静かな構えから繰り出す豪快なスイングは、ヘッドスピードがずば抜けており、軽々とスタンドに運び入れてしまうスラッガーである。150メートル級のホームランを飛ばせる上に穴がないため、三冠王に最も近い打者でもある。

 通算成績(2012年末現在):(日本10年)打率.304、332本塁打、889打点。1390安打。本塁打王3回(1998・2000・2002)打点王3回(1998・2000・2002)首位打者1回(2001)シーズンMVP3回(1996・2000・2002)日本シリーズMVP1回(2000)ベストナイン8回(1995〜2002)ゴールデングラブ賞3回(2000〜2002)
(大リーグ10年)打率.282、175本塁打、760打点、1253安打。ワールドシリーズMVP1回(2009)
(日米通算)打率.293、507本塁打、1649打点、2643安打。
数々の伝説

 @甲子園で5打席連続敬遠

 1992年8月16日、夏の甲子園で世間を揺るがす事件は起こっている。
 松井は、石川県の星稜高校の大型三塁手として4番を任されており、それまでに高校通算59本塁打を記録していた。1年夏の甲子園初出場から数えて4度目の甲子園出場。1回戦の長岡向陵高校戦(新潟)は11−0で軽く突破している。
 2回戦は高知県の明徳義塾高校戦である。明徳義塾は、星稜高校戦が初戦だった。
 明徳義塾の馬渕史郎監督は、星稜高校の超高校級スラッガー松井を全打席歩かせることを指示した。もちろん勝つためである。夏の高校野球は一度負けたら終わってしまうトーナメント。次の試合をするためには何としても勝たなければならない。
 試合は1点を争う好ゲームになった。
 松井は、第1打席から第5打席までの20球すべてに敬遠のボールを投げられ、5打席連続四球で一塁へ歩いた。ランナーなしの場面でも松井は勝負してもらうことはなかった。
 この松井への四球攻撃に対し、甲子園の観客は、ブーイングを浴びせ、メガホンやゴミを投げ入れて抗議した。
 松井は全打席出塁してチャンスを作ったものの、硬くなった星稜高校の5番バッター以降は明徳の河野和洋投手を打ち崩すことができず、2−3で敗れた。馬渕監督の目論見通り、明徳義塾高校は、松井封じに成功し、3回戦に駒を進めたのだ。
 勝った明徳義塾高校が校歌を斉唱している間中、観客は容赦ない「帰れ」コールを浴びせ、校歌の声はかき消された。
 試合後、明徳義塾の宿舎には千件を超える抗議の電話が殺到し、高野連の牧野直隆会長が異例の記者会見を開いて、明徳の四球攻撃に苦言を呈するという事態にまで発展した。
 そのため、この松井5打席連続敬遠は、全国各地で物議を醸し、その年を代表する社会問題になった。


 A伝説の10.8でホームラン

 1994年、松井は、開幕戦から三番打者に座って1回と4回に2ラン本塁打を放ち、11−0で広島に圧勝したところから巨人の快進撃は始まった。
 しかし、一時独走態勢に入っていた巨人も、8月・9月の打撃陣不調が響いて10月8日時点でわずか1試合を残して中日と並ばれてしまう。
 そして130試合目に勝った方が優勝というなかで10月8日の巨人×中日戦が行われた。
 試合は、四番落合博満の先制本塁打などで2点リードするが、巨人の槙原寛己も打たれて同点に追い付かれる。巨人は槙原をあきらめて2回に早くも斎藤をマウンドに送り込んだ。
 3回には再び落合のタイムリーでリードを奪う。今中は4回5失点で降板した。
 そして、5回、松井対策として登板した左腕の山田喜久夫投手の直球を松井は見事にソロ本塁打。自身初のシーズン20号となり、ダメ押しの6点目をたたき出した。
 巨人は、斎藤雅樹・桑田真澄という黄金リレーで締めくくり、6−3で激戦を制してリーグ優勝を決めた。


 B抜群の飛距離

 松井は、一流の大リーガーにも負けないパワーを備えており、素晴らしい飛距離を稼ぐ本塁打も多い。
 松井の飛距離を最初に知らしめたのが1996年6月21日の横浜戦で、4回に荒木大輔投手から東京ドームのライトスタンドの看板をも超えていく特大ホームランを放ってからである。
 1998年5月13日の横浜戦では戸叶尚投手から横浜スタジアムのライト場外に本塁打を放ち、8月20日の横浜戦では野村弘樹投手から東京ドームのライトスタンドの照明を超えていく特大ホームランを放っている。
 そして、2000年9月8日のヤクルト戦で石井一久投手から放った打球は、東京ドームの高さ61メートルの天井を直撃し、右翼手のグラブに収まった。確実に150メートルを超える飛距離を稼いでいた本塁打性の打球であったにもかかわらず、松井の3ラン本塁打は幻と消えた。
 だが、日本で最長飛距離を記録するのに最も近いバッターであることは間違いない。


 CシーズンMVPと日本シリーズMVPを両方獲得

 2000年、「ミレニアム重量打線」と呼ばれた巨人の打撃陣は、松井をはじめとして高橋由伸・清原和博・江藤智など、スラッガーが揃っていた。チーム本塁打は、驚異の203本。
 松井は、打率.316、42本塁打、108打点と打ちまくり、本塁打王と打点王を獲得し、巨人をリーグ優勝に導いた。
 当然のようにシーズンMVPも手にしている。
 そして、ダイエーとの対戦となった日本シリーズでは第1戦に若田部健一投手からセンターへ2ラン本塁打を放つと、第3戦にも星野順治投手からライトへ2ラン本塁打、第6戦でも渡辺正和投手からセンターへ2ラン本塁打を放ち、打率.381、3本塁打、8打点の活躍を見せた。
 巨人は、松井の活躍により、4勝2敗で日本一を達成。
 松井は、日本シリーズMVPに選出されている。


 D5年連続オールスター本塁打&3連戦3連発

 2001年、オールスター第1戦で2回表に松井は、ロッテの黒木知宏投手からソロ本塁打を放ち、5年連続球宴本塁打を記録した。これは、1981〜85年に5年連続弾を放った広島の山本浩二と並んで日本タイ記録である。
 そして、第2戦でも松井は、3回に西武の松坂大輔投手から本塁打を放って2試合連続本塁打を達成する。
 さらに、第3戦ではロッテの藤田宗一投手から3戦連続本塁打を放ち、史上初の同一年3戦連発の記録を達成した。
 この年、セリーグは1勝2敗と負け越したものの、松井はこの年、3試合連続で優秀選手賞に輝いている。


 E65試合連続出塁

 2001年、松井は、5月5日の横浜戦から毎試合出塁を続け、7月8日の横浜戦ではついに王貞治が樹立した50試合連続出塁のセリーグ記録に並んだ。
 松井の連続試合出塁はさらに続き、8月3日の横浜戦で65試合連続出塁にまで伸ばした。
 この記録は、1994年にオリックスのイチローが打ち立てた69試合連続出塁にはわずかに及ばなかったものの、歴代2位の記録となっている。


 F左手首骨折から4打数4安打で復活

 2006年5月11日、大リーグ4年目を迎えた松井に試練が襲いかかる。1回のレフトの守備で浅いフライに対してスライディングキャッチを試みた松井は、グラブがグラウンドの穴にはまるという不運により、左手首を骨折してしまうのだ。これにより、巨人時代から続けてきた連続試合出場も1768で止まった。
 バッティングの根幹を揺るがす手首の故障だけに、そのシーズン中の復帰は絶望しされたが、松井は、懸命のリハビリにより、9月12日のデビルデイズ戦で4ヶ月ぶりに復帰する。8番DHでの出場ではあったが、1回にセンター前にタイムリーヒットを放つと、3回にライト前ヒット、4回と6回にもセンター前ヒットを放った松井は、復帰戦を4打数4安打で飾るという劇的な復活を果たす。
 そのまま、スタメンに座り続けた松井は、規定打席には遠く及ばなかったものの3割を超える打率を残し、プレーオフにも出場を果たした。


 G日本人初のワールドシリーズMVP
 2009年、松井は、前年オフに手術した膝の調子を考慮して開幕から指名打者として起用される。松井は、シーズン序盤こそ調子が上がらなかったものの、徐々に調子を上げてシーズン28本塁打、90打点の活躍でチームの地区優勝に貢献する。
 そして、圧巻だったのがポストシーズンで、松井は、ツインズとの地区シリーズ第1戦で本塁打を放つと、エンゼルスとのリーグ優勝決定シリーズでも第1戦で3打数2安打2打点の活躍で勢いをつけた。
 フィリーズとのワールドシリーズでは、第2戦で6回にペドロ・マルティネス投手から決勝本塁打を放つと、第3戦でも8回にマイヤーズ投手から2試合連続本塁打を放って勝利に貢献する。
 さらに第6戦では2回にペドロ・マルティネス投手からライトへ先制2ラン本塁打を放つと、3回にはセンター前に2点タイムリー安打、そして、5回には右中間へ2点タイムリー2塁打を放って、4打数3安打6打点の大活躍を見せる。
 ヤンキースは、松井の活躍によって7−3で勝利して4勝2敗で世界一に輝き、松井は、ワールドシリーズ6試合で13打数8安打、打率.615、3本塁打、8打点という文句のつけようのない成績でワールドシリーズMVPに輝く。
 日本人選手のワールドシリーズMVPは、史上初の快挙であり、1試合6打点もシリーズ記録だった。





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