松原 誠
 1944年1月、生まれ。右投右打。内野手・外野手・捕手。背番号38→25(大洋・巨人)。飯能高校からテスト生として1962年、大洋に入団。
 1966年に打率.294を記録して頭角を現すと1968年には28本塁打を記録して大洋の中心打者となった。
 1970年には30本塁打を放ち、初めて30本の大台に乗せた。
 1974年には157安打を放ってシーズン最多安打を記録する。打率も.317と初めて3割台に乗せ、リーグ3位となった。
 1976年に33本塁打を放つと、1977年には34本塁打、110打点という活躍を見せた。1976年は4打席連続本塁打の日本タイ記録も作っている。
 1978年には打率.329、164安打で2度目の最多安打を記録する。この年の45二塁打はセリーグ歴代最多タイ記録となった。
 1979年には14年連続100安打以上という記録を残した。
 1980年4月には史上12人目の通算2000本安打を達成。この年は、代打としての起用が増えたものの、代打で7打数連続安打という日本記録を樹立する。
 そして、1981年に巨人へ移籍。現役生活最初で最後となるリーグ優勝と日本一を経験する。日本シリーズでは初打席初本塁打を放った。その年限りで現役を引退。

 外角打ちがうまく、考える人「ロダン」と呼ばれるほど打撃を突き詰めるスタイルで、大洋の主砲として毎年安定して安打を積み重ねた。左足を大きく前に開く捕球の一塁守備には定評があり、内野の守備陣を大いに助けた。

通算記録(実働20年):打率.276、331本塁打、1180打点。2095安打。最多安打2回(1974・1978)

数々の伝説


 @シーズン最多二塁打セリーグ記録

 松原は、1978年、164本安打を放ったうち、二塁打が実に45本もあった。これは、大洋の大沢清が1950年に記録したセリーグ最多二塁打記録に並ぶものだった。
 松原は、二塁打を得意とし、1966年に32二塁打で最多二塁打、1972年にも27二塁打で最多二塁打を記録している。
 最近は球場が広くなったため、シーズン40二塁打を超える選手が続出しているが、昔はシーズン40二塁打を超える選手は滅多に出てこなかった。松原の前にセリーグで40二塁打記録したのが1954年の与那嶺要まで24年遡るのを見ても松原の記録の偉大さが分かるだろう。


 A4打席連続本塁打
 
 1976年6月1日の阪神戦で2打席連続本塁打を放った松原は、続く6月2日の阪神戦でも2打席連続本塁打を放ち、2日間にわたる4打席連続本塁打を放つ。これは、日本タイ記録で、史上6人目の快挙だった。
 松原は、この他にも1974年4月22日の阪神戦で1試合3本塁打、1976年7月31日にも1試合3本塁打を放っており、調子に乗せたら手に負えないホームランバッターだったのである。


 B開脚捕球の一塁守備

 松原は、一塁守備の名手でもあった。松原は、左足を極限まで前に伸ばして内野手からの送球を受けた。そうすることによって、少しでも早く送球が届き、アウトにする可能性を増やすためだ。
 大股を開くことによって重心が低くなるのでワンバウンドの送球を受ける技術も確かなものがあった。松原は、一塁守備のために股関節を柔らかくする運動を欠かさなかったという。
 大洋から名遊撃手山下大輔らが育ったのには、松原の捕球技術によるところも大きかったと言っていいだろう。
 だが、松原は、一度もゴールデングラブ賞を受賞していない。なぜなら、松原の全盛期は王貞治の全盛期と重なるため、ゴールデングラブ賞は毎年王貞治が受賞していたからである。しかし、守備面だけをとれば、松原の方が王より上だったと断言する者は多く、本当に守備面だけでゴールデングラブ賞の選考がなされていたかどうかは疑問を残している。


 C8ポジション制覇

 少年時代から捕手をしていた松原は、プロ入団1年目から1軍出場を果たしているが、捕手としてのデビューだった。1年目は、33試合に捕手として出場する。
 だが、プロ2年目にして松原は、一塁手へのコンバートが決まる。バッティングの素質を見込まれ、それを生かすためだった。
 だが、このコンバートはその後の松原を守備万能プレーヤーにするきっかけとなる。1964年にはサードも守るようになり、1967年には外野や二塁も守るようになる。1968年には遊撃手も務める。
 結局、松原は、現役を通じて一塁1592試合、三塁568試合、ライト47試合、捕手39試合、二塁38試合、遊撃17試合、レフト2試合、センター2試合を守った。記録作りのために8ポジション守ったわけではなく、気がつけば8ポジションをこなしていたのである。唯一、9ポジション目の投手としてマウンドに立つことだけがなかったのはそのためだろう。


 D本塁打で通算2000本安打達成

 198年4月23日、松原は、阪神戦で本塁打を放ち、プロ19年目にして通算2000本安打を達成する。史上12人目の快挙だった。
 松原は、1966年にレギュラーとして初めて規定打席に到達して以降、毎年100安打以上を積み重ね、1974年と1978年にはリーグ最多安打を記録する安打製造機となった。
 そして、1979年には14年連続100安打以上という記録を作る。ONの全盛期と重なるため、主要3部門のタイトル獲得もなく、大洋では1度もリーグ優勝を果たすことはできなかったが、弱小チームでときには孤軍奮闘してチームを盛り立てた功績は大きい。


 E代打で7打数連続安打

 1979年から調子を落としつつあった松原は、1980年4月に通算2000本安打を達成したものの、代打での出場が徐々に増えてくる。
 1980年8月14日のヤクルト戦で代打で安打を放った松原は、その後、代打で打席に立つたびに安打を放ち続け、10月12日の広島戦まで代打で7打数連続安打という日本記録を樹立する。
 集中力を高めたときの松原は、すさまじい固め打ちをすることで恐れられた。逆にスランプに陥ると考え込みすぎて悪循環に陥るということもあったそうだが、結果的には14年連続100安打以上という安定した成績が残った。


 F巨人へ移籍

 1981年、大洋の顔だった松原は、巨人へ移籍する。だが、松原自身は、巨人が好きなわけではなかった。
 プロ野球選手会の会長として選手達の待遇改善を求めて尽力し、選手会の法人化を進めて1980年8月15日に社団法人としての法人格を獲得する、といった精力的な活動が大洋の球団幹部に煙たがられたからだった。
 松原は、1981年、望んでもいないのに移籍させられた巨人で自身初のリーグ優勝と日本一を経験する。しかし、松原が心から望んでいたのは、大洋で味わう優勝だったという。


 G日本シリーズで江夏から現役最後の本塁打

 1981年、巨人に移籍した松原は、初めてリーグ優勝を経験し、日本シリーズに出場する。レギュラーとしての出場こそ叶わなかったが、松原は、第1戦の9回表に代打で登場する。スコアは4−5と日本ハムに1点リードを許している。
 そして、マウンドには日本ハムの絶対的守護神、江夏豊がいた。しかし、松原は、その江夏からシリーズ初打席にして本塁打をレフトスタンドへ叩き込み、同点に追いつく。巨人は、その裏にサヨナラ負けしたものの、松原の勝負強さを見せつけた一撃だった。
 松原は、このシリーズ後に現役を引退。江夏から放った本塁打は、現役最後の一発となった。





(2005年10月作成)

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