ロベルト・マルカーノ
 1951年6月、ベネズエラ生まれ。通称:ボビー・マルカーノ。内野手。右投右打。背番号4(阪急)→3(ヤクルト)。カラカス高校からベネズエラのプロ球団ラ・ガァイラに入団する。その後、アメリカのエンゼルス傘下の3Aソルトレークシティで活躍を見せ、注目を集める。
 1975年、阪急と契約して来日し、1年目から打率.298、23本塁打の成績を残して阪急のリーグ優勝に貢献する。そして、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出される。さらに、日本シリーズでも、全6試合で安打を放つなど、打率.346、1本塁打を残し、阪急を4勝2分で日本一に導く。
 1976年には25本塁打を放って阪急のリーグ2連覇に貢献すると、日本シリーズでも7試合で打率.357、1本塁打、8打点の活躍を見せて阪急の2年連続日本一に貢献する。
 1977年に阪急の3年連続日本一に貢献すると、1978年には打率.322、27本塁打、94打点で打点王を獲得し、打率もリーグ3位となり、阪急のリーグ4連覇の原動力となる。日本シリーズでも7試合で打率.346、2本塁打、6打点の活躍を見せたが、ヤクルトに3勝4敗で敗れて4年連続日本一を逃した。
 1979年には打率.299、32本塁打、97打点と初めて本塁打を30本台に乗せる。4度目のベストナイン・ゴールデングラブ賞にも選出されている。
 1982年に打率.267、15本塁打と成績を落とすと阪急から放出され、ヤクルトに移籍する。
 ヤクルトでは移籍1年目の1983年に25本塁打を放つと、1984年には打率.300を記録するなど、成績を上昇させる。
 1985年、規定打席に満たないながら打率.299を残したが、現役を引退した。

 勝負強さとパワーを兼ね備えた打者であるとともに、俊足強肩の堅実な2塁守備と真面目な人柄で阪急の主軸として黄金時代を築き上げた。

通算成績(実動11年):打率.287、232本塁打、817打点、1418安打。打点王1回(1978)ベストナイン4回(1975、1977〜1979)ゴールデングラブ賞4回(1975〜1976、1978〜1979)

数々の伝説


 @上田監督の熱望により来日

 3Aソルトレークシティーでプレーしていたマルカーノは、シーズン成績が3割を超えるようになったものの、大リーグ昇格の声は一向にかからなかった。
 そんなマルカーノに目をつけたのが阪急の上田利治監督だった。上田は、走攻守が揃ったマルカーノに惚れ込み、自ら説得に当たって、阪急入団をとりつけたのである。
 来日したマルカーノは、まだ24歳だった。年俸も格安の700万円である。そのため、入団時にはいずれ大リーグで活躍するという未練があったものの、来日3年目以降は大リーグはあきらめて日本で現役生活を全うする。最終的には阪急で8年間、ヤクルトで3年間活躍して一流の成績を残し、現役を引退した。
 上田監督は、マルカーノの勝負強さと高い守備力を重宝し、阪急がリーグ4連覇、日本一3連覇を果たした最大の要因としてマルカーノの活躍を挙げている。


 A来日1年目で球団初の日本一に貢献

 1975年、マルカーノは、来日1年目ながら打率.298、23本塁打を放つ活躍を見せ、阪急のリーグ優勝に貢献する。ベストナインとゴールデングラブ賞を同時に獲得するなど、攻守双方で高い評価を受けた。
 阪急のリーグ優勝は、通算6回目だったが、過去5回はいずれも巨人に日本シリーズで敗れて日本一を逃していた。
 1975年の日本シリーズの相手は、リーグ初優勝を遂げた広島だった。
 マルカーノは、第1戦で逆転の2ラン本塁打を放つと、第2戦でも追加点をたたき出すタイムリーを放つなど、6試合連続安打を記録する。チームも、山口高志、山田久志の両投手を中心として広島を圧倒し、4勝無敗2分で念願の日本一を手にする。
 マルカーノは、打率.346、1本塁打の好成績を残したが、MVPは投手の山口高志が獲得している。


 B打点王

 1978年、マルカーノは、元来の勝負強さに磨きをかけ、例年以上の活躍を見せる。すると、四番打者に昇格し、シーズン157安打、打率.322と自己最高の成績を残したのである。
 そして、終盤まで激しいタイトル争いを繰り広げたのは打点だった。熾烈な打点王争いは、優勝決定後も続き、マルカーノは、最終戦で2打点を挙げる活躍を見せて94打点とし、ミッチェルの93打点をしのいで初の打点王を獲得したのである。
 その翌年は、前年を上回る97打点を残したが、チームメイトの加藤英司に7打点及ばず、タイトルを逃している。


 C目の怪我で大リーグをあきらめる

 1977年6月11日、マルカーノは、練習中に球を左目に受けて手術を行うことになる。そのシーズン中に復帰はできたものの、プレーするには眼鏡が必要になってしまった。マルカーノは、この怪我によって、それまで持っていた大リーグ挑戦の夢はあきらめている。
 しかし、意外にもマルカーノは、故障後、成績が上昇する。復帰戦で本塁打を放つと、翌年には打率が初の3割突破、打点王まで獲得する活躍を見せる。眼鏡によって頭がぶれなくなったのと、入院中に相手投手をビデオで研究した成果だった。
 その後も、安定した成績を残したマルカーノは、日本で11年間活躍するという当時では稀な存在となったのである。


 DオールスターMVP

 1979年7月22日のオールスター第2戦は、投手戦となり、全パが加藤英司の犠牲フライで1−0とリードして6回表を迎える。
 全パは、連打で無死2、3塁のチャンスを作り、マルカーノが打席に立つ。マルカーノは、藤沢公也投手からレフト線へ二塁打を放ち、3−0とリードを広げる。この2打点がものを言って全パは、3−1で勝利し、マルカーノは、オールスターMVPに選出される。

 また、マルカーノは、来日1年目の1975年オールスター第2戦で先発出場して二塁打1本を含む4打数4安打の活躍を見せたが、パリーグは3−4で敗れたため、MVPを逃している。


 E守備の名手

 上田監督がマルカーノを獲得した理由は、走攻守が揃った外国人選手だったことが大きい。外国人と言えば、大砲を獲得するというのが通例だが、マルカーノは、身長177センチで日本人選手と変わらない体格である。
 そのため、二塁手として俊敏な動きを見せ、守備範囲も広く、堅実だった。名遊撃手の大橋譲と組んだ二遊間は鉄壁で、当時ナンバー1のコンビとの評価も高かった。上田監督は、向こう10年間は二塁手を探さなくていい、とマルカーノの守備を称賛した。
 マルカーノは、4度ゴールデングラブ賞を獲得し、外国人最多記録を樹立した。


 F年中野球

 ベネズエラでは、冬の間でもウインターリーグという試合が行われている。マルカーノは、日本でのシーズンが終わると、毎年、帰国してウインターリーグでプレーをしていた。
 それは、大リーグで希望する夢のためと思われていたが、実際は、野球が好きだったためである。阪急は、攻守の要であるマルカーノの疲れや故障の危険を心配して、日本がオフの間は野球を休むように昇給の話も出して懇願していたが、マルカーノは、野球が好きだから年中野球をやっていたいということを理由に断りを入れる野球の虫だった。


 G失策して敗戦後、涙の謝罪

 マルカーノは、オフ返上でウインターリーグに参加するなど、野球に対する取り組み方は、人並み外れていた。
 そして、野球以外でも、日本のチームメイトとコミュニケーションを図るため、必死に日本語を勉強し、マスターする。これは、のちに巨人で通訳として招かれる結果を生む。
 さらに、特筆すべきは、マルカーノの誠実な人柄である。マルカーノは、山田久志が先発した日本ハム戦で9回裏に自らのエラーにより、サヨナラ負けしてしまうが、そのあと、ロッカールームでマルカーノは、山田に対して涙を流して謝罪する。マルカーノが日本人に愛されたのは、こうした逸話に如実に表れている。


 H移籍

 マルカーノ獲得と同時に常勝チームとなった阪急だが、1979年からはリーグ優勝に見放される。マルカーノも、1981年、1982年と打率が2割6分台、本塁打も20本に届かなくなった。
 そのため、阪急は、マルカーノの放出を決定する。代わりにアメリカから獲得したのが、のちに三冠王となるブーマーである。
 しかし、放出されたマルカーノも、移籍先のヤクルトで意地を見せる。1983年に25本塁打を放って全盛時の輝きを取り戻すと、1984年には打率.300を残したのである。





(2008年6月作成)

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