チャーリー・マニエル
 1944年1月生まれ。アメリカのウェスト・バージニア州出身。外野手。右投左打。背番号48(ヤクルト・近鉄)→2(ヤクルト)。マックルア高校からツインズに入団し、大リーグのレギュラーまであと少しというところまでいった。しかし、足首の故障からチャンスを失い、その後、ドジャースに移籍したがレギュラーにはなれず、大リーグでは通算242試合の出場にとどまった。
 1976年にヤクルトへ入団し、1年目こそ足を故障して打率.243、11本塁打に終わったものの、2年目から見違えるような活躍。1977年に打率.316、42本塁打、97打点で一躍ヤクルトの主砲となった。ヤクルトも球団初の2位となっている。
 1978年には打率.312、39本塁打、103打点を残し、ヤクルトを球団初のリーグ優勝に導いた。日本シリーズでも3本塁打を放ち、阪急を4勝3敗で破り、日本一となるのに大きな貢献をした。
 にもかかわらず、守備・走塁を重視する広岡達朗監督の構想に反発し、自らトレードを志願して近鉄に移籍。
 1979年には広岡ヤクルトを見返すかのような猛打を披露し、シーズン途中に死球で顎を複雑骨折して長期欠場したにもかかわらず、打率.324、37本塁打、94打点の活躍で本塁打王を獲得し、近鉄をリーグ優勝に導いてシーズンMVPにも選ばれた。日本シリーズでは江夏の21球により、3勝4敗で広島に敗れた。
 顎が治った1980年には前年以上の活躍を見せて、打率.325、48本塁打、129打点で本塁打王と打点王の二冠王に輝いた。
 しかし、契約交渉の決裂から近鉄を退団。古巣のヤクルトに戻ったものの、スランプに陥り、打率.260、12本塁打に終わってその年限りで帰国した。
 帰国後は、マイナーリーグのコーチなどをしていたが、2000年からは大リーグのインディアンスで2年半監督を務めた。
 2003年には大リーグのフィリーズのゼネラルマネージャー(GM)特別補佐に起用されている。

 190センチを超える巨体を生かしたパワフルだと上手さを兼ね備えた打撃で安定した成績を残し、闘志溢れるプレーから「赤鬼」という愛称で恐れられた。

通算成績(実働6年):打率.303、189本塁打、491打点、644安打 本塁打王2回(1979・1980)打点王1回(1980)MVP1回(1979)ベストナイン3回(1978〜1980)

数々の伝説



 @ヤクルトを球団初のリーグ優勝・日本一に導く

 マニエルがヤクルトへ入団したとき、ヤクルトは、前身の国鉄時代からまだ一度もリーグ優勝をしたことがなかった。
 あの金田正一を擁してもめったにAクラスに入れず、2位にすらなったことがなかった。
 そんなチームをマニエルが一変させる。1977年に打率.316、42本塁打、97打点を残し、広岡達朗監督の采配ともかみ合って、ヤクルトを球団初の2位に押し上げたのだ。
 そして、1978年、マニエルは、打率.312、39本塁打、103打点を残し、ヤクルトをついに球団初のリーグ優勝に導く。球団創設から29年目にしての悲願達成だった。この年のヤクルト打線は、マニエル、大杉勝男、若松勉、ヒルトンらがいずれも活躍する強力打線だった。
 マニエルは、シーズンMVPこそ、打率.341を残した若松勉に譲ったものの、マニエルなくしてリーグ優勝はなかったと言っても過言ではない。
 マニエルは、阪急との日本シリーズでも第1戦、第2戦、第7戦に本塁打を放ち、日本一に大きく貢献した。


 A10打席連続安打

 マニエルは、豪快な本塁打だけが魅力の巨漢打者だったわけではない。状況に応じてしぶとく左右に打ち分けることもできた。
 それを証明してくれる記録がある。
 1978年7月1日の中日戦で9回に内野安打を放つと、続く3日の阪神戦では4打席立って4打数4安打と完璧な成績を残し、続く5日の阪神戦でも5打席立って5打数5安打だった。
 これで10打席連続安打。この記録は、大映の坂本文次郎が1954年に樹立した日本記録に並ぶものだった。
 翌6日の巨人戦で新記録に挑戦したマニエルは、残念ながら空振り三振に終わっている。

 また、この年、マニエルの所属するヤクルトは、開幕から129試合にわたって連続試合得点を記録し、前年から合わせると143試合連続得点という日本記録を樹立した。さらに1979年から1980年にかけてはマニエルの所属する近鉄が何と215試合連続試合得点という驚異的な日本記録を樹立する。どちらもマニエルの確実性のあるバッティングが貢献していることは疑いないだろう。


 B広岡構想に反発して近鉄移籍

 1978年のヤクルト優勝に占めるマニエルの功績の大きさは明らかなのに、球団も広岡監督もマニエルを高く評価しなかった。特に広岡監督は、マニエルの外野手としての刺殺数の少なさ、足の遅さを槍玉に挙げた。
 そして、広岡監督がさらなる守備力・機動力の強化に乗り出したことに反発したマニエルは、トレードを志願する。
 ヤクルトは、マニエルを簡単に放出し、マニエルはパリーグの近鉄に移籍した。マニエルは、近鉄の西本幸雄監督に信頼され、ますますバッティングに磨きがかかっていく。
 一方、マニエルを失ったヤクルトは、翌1979年、最下位に沈んだ。


 Cフェイスガードヘルメット

 近鉄移籍1年目の1979年6月9日、午後3時からのロッテ戦にマニエルは出場する。その試合で、ちょうど夕暮れ時にロッテの八木沢荘六が投げた厳しい内角高めの直球をよけきれなかったマニエルは、まともに顎に受けた。
 マニエルは、八木沢の方に向かおうとするが、口から出血してその場に倒れた。死球を受けたとき、マニエルは、顎を複雑骨折していたのだ。マニエルは、マイナーリーグ時代も顎に死球を受けて骨折したことがあったため、手術は困難を極め、実に5時間半に及んだという。
 約2ヶ月後の8月4日にようやく復帰したマニエルだが、顎はまだ完治していなかった。体重もかなり落ちて一回り小さくなっていた。それでも、マニエルは、ヘルメットにアメリカンフットボール用のフェイスガードを着けて顎を厳重に保護しながらプレーする。
「近鉄も、西本監督も、私を必要としているのだ」
 病院や知人が止めるのをそう振り切ってグラウンドに戻ってきた。
 マニエルの復帰で勢いを得た近鉄は、阪急とのプレーオフを制してリーグ優勝を果たした。


 D近鉄を球団初のリーグ優勝に導き、シーズンMVP

 顎の骨折で約2ヶ月間を棒に振ったマニエルは、130試合中97試合にしか出場できなかった。しかし、その97試合で放った本塁打は実に37本。全試合に出ていれば、50本ほど打っていた計算になる。
 近鉄は、マニエルの活躍による貯金でどうにか前期優勝をすると、故障から戻ってきたマニエルを加えた戦力でプレーオフも制した。この優勝は、近鉄が球団創設30年目にして初のリーグ優勝だった。近鉄も、ヤクルトと同じようにそれまでの歴史の大半をBクラスに低迷していたのだ。マニエルは、長年優勝できなかった弱小の2球団を連続してリーグ優勝に導いたのだった。
 シーズン97試合出場ながら打率.324、37本塁打、94打点を残したマニエルは、シーズンMVPに選ばれる。100試合以下の出場でMVPに選出されるのは極めて異例のことだが、成績から見ても、大怪我を克服した闘志を見ても、MVPにはマニエルがふさわしかったのである。
 しかし、1980年は、前年以上の活躍をして、またしてもチームをリーグ優勝に導いたにも関わらず、マニエルはシーズンMVPに選ばれなかった。
 なぜならこの年は、日本ハムの新人投手木田勇が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の3冠王に輝くなど、タイトルを総なめにしてシーズンMVPに選ばれてしまったからである。


 E契約更改決裂で近鉄退団

 1980年のオフ、カブスのスティーブが西武と契約を交わした。3年で100万ドルという破格の契約だった。
 そうなれば、近鉄で既に2年間、好成績を残し続けているマニエルも黙っていられない。日本で実績のないスティーブにそれだけ出すなら、俺にも同格の契約を、そして複数年の2年契約を、と主張したのだ。
 しかし、近鉄は、そういったスティーブと同格の契約を渋った。交渉は、すぐに決裂し、マニエルは近鉄を退団することになった。
 マニエルが退団した近鉄は、翌1981年、最下位に沈んでいる。


 F不調でヤクルト退団

 近鉄を退団したマニエルは、再びヤクルトに迎えられる。既に広岡達朗は、監督を追われ、武上四郎が監督になっていた。
 活躍を期待され、2年契約を結んだマニエルだが、1年目に極度の不振に陥る。いつまでたっても調子の戻らないマニエルは、そのシーズンを打率.260、12本塁打という平凡な成績に終わる。
 ヤクルトは、1年目の途中に契約を打ち切ろうとしたが、マニエルは、契約を盾にとって譲らず、1年目の年俸を受け取って帰国したと言われている。


 G赤鬼

 マニエルは、赤みを帯びた金髪をなびかせ、巨体からの闘志溢れるプレーで観客を沸かせた。豪快な本塁打も放てるし、シャープに広角へ打ち分けられるから投手は投げる場所がない。普段は陽気だが、喧嘩っ早い性格でもあった。そんなマニエルには「赤鬼」という恐ろしい愛称が与えられた。「赤鬼」と言えば、あのボブ・ホーナーも同じ愛称が付けられたが、マニエルが元祖だったわけである。
 フェイスガードをつけてまでプレーする闘魂を見せたマニエルには、他にも様々な「赤鬼」伝説がある。乱闘をした相手を試合後、駅まで追いかけ回したとか、飲み屋で喧嘩に巻き込まれ、コンクリートを振り回して暴れたとか、同じ外国人選手のライトと喧嘩してパンチでKOしてしまったなどなど。
 ヤクルト・近鉄・ヤクルトでの3回にのぼる退団劇も、マニエルの激情が引き起こした「赤鬼」伝説である。 


 H大リーグで監督

 マニエルの少年時代からの最終的な夢は、大リーグの監督になることだったという。マニエルは、1981年にヤクルトを退団してアメリカに戻った後、ツインズのスカウトになり、マイナーリーグでコーチ、監督も経験した。
 そして、ついに2000年、マニエルは、大リーグのインディアンスで監督になった。2年半に及ぶ監督時代は、病気に悩まされたりして満足のゆく結果は残せなかったものの、2003年にはフィリーズのゼネラルマネージャー(GM)特別補佐となった。
 日本という他文化の中で培った経験が大きく生きていることは言うまでもないだろう。





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