槙原寛己
 1963年8月、愛知県生まれ。投手。右投右打。背番号54→17。大府高校で1981年春の選抜大会に出場し、その剛速球が注目を集める。
 1982年、ドラフト1位で巨人に入団。1983年に初先発で初完封という快挙を成し遂げる。その年、いきなり12勝を挙げて、新人王を獲得。
 1984年に155キロというスピードガンができて以来の最速記録(当時)を樹立した。
 1988年には10勝13敗ながら187奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得している。
 1989年には12勝4敗、防御率1.79を残し、巨人のリーグ優勝と日本一に大きく貢献した。
 この頃から斎藤雅樹・桑田真澄と並んで巨人の3本柱と呼ばれるようになる。
 1994年には8月の広島戦で完全試合を達成。伝説の10.8では先発をしている。そして、その年の日本シリーズでは2勝を挙げて、見事MVPに輝いている。
 1998年には抑えに転向して6勝18セーブを挙げ、翌年は4勝23セーブを残して守護神としての活躍も見せた。
 故障のため、2001年限りで現役引退
 MAX155キロを出した、右から投げ下ろす直球は速く、それを主体にしてスライダー、フォークを織り交ぜて打者を打ちとっていくイリズムの良い投球が持ち味であった。
 
 通算記録(実働19年):159勝128敗56セーブ。防御率3.19.2111奪三振。新人王(1983)最多奪三振(1988)日本シリーズMVP(1994)完全試合(1994)
 

数々の伝説


 @剛球投手

 槙原は、大府高校当時から剛速球で注目を集めていた。
 プロ入り後、デビュー戦でいきなり完封勝利を収めて一躍ローテーション投手となった。
 そして、1984年には155キロというスピードガンできて以来の最速記録を打ち立てている。
 その剛速球で1988年には187奪三振でタイトルを獲得。
 プロ通算で2111もの三振を奪っている。


 A阪神の強打線にバックスクリーン3連発を浴びる

 1985年4月17日、巨人×阪神2回戦で槙原は先発した。剛速球を売り物にして阪神打線に立ち向かい、6回まで1失点に抑える好投を見せた。
 3−1で巨人リード。そして、7回裏がやってきた。
 2死からバースが逆転3ラン。
 7回裏、簡単に二死一二塁で打席は3番バース。
 バースは、槙原の初球のストレートを豪快にバックスクリーンに叩きこみ、4−3と逆転。
 さらに4番の掛布がカウント1−1からストレートをバックスクリーンにソロホームラン。その興奮が冷めぬうちに5番岡田がカウント1−0からスライダーをバックスクリーンへソロホームランを放った。3連発を浴びた槙原は、マウンドに立ち尽くした。
 このバックスクリーン3連発は、奇跡と呼ばれ、阪神タイガースはこの3連発以降快進撃を続けて打ちまくり、この年は日本一にまで登り詰めている。
 それに対し、巨人は3位。槙原は、4勝7敗に終わっている。


 B同じ年にまたも阪神打線の犠牲に

 1985年5月20日、巨人×阪神戦の先発は槙原だった。
 槙原は、この試合でも6回まで好投。阪神打線を無失点に抑えて5−0としていた。
 が、またしても7回だった。しかも2死。
 満塁の場面で打席に立った代打の佐野仙好は、槙原のカーブを満塁本塁打する。
 勢いに乗った阪神は、真弓明信も逆転2ランで続いて、またしても大逆転を許した。


 Cフリーエージェント宣言で17本のバラ

 1993年オフ、日本のプロ野球史上初めてフリーエージェント制が施行され、4人の選手がFA宣言をした。
 槙原も、そのときFA宣言をし、他球団の評価を聞いた。
 しかし、戦力の低下を憂慮した巨人の長嶋監督は、槙原を慰留するため、背番号と同じ17本のバラを持って自宅を訪問。
 それに感動した槙原は、FA移籍を断念。初めてFA残留の道を選んだ。しかし、皮肉にもこのFA宣言残留がその後、年俸引き上げの手段として使われるようになり、一流選手の年俸高騰を招いている。


 D完全試合達成

 1994年5月18日、福岡ドームで行われた巨人×広島戦で槙原は先発した。
 その2日前の夜、槙原は、飲みに出掛けて門限を破り、コーチから外出禁止を言い渡される。ただし、次の登板結果次第という条件付きでもあった。
 この試合は、巨人通算7000試合目でもあった。
 槙原は、初回から飛ばし、一人のランナーも許さない。
 巨人打線も爆発し、6−0というスコアで9回を迎えた。
 槙原は、この日抜群の切れがあった直球を主体としたピッチングで9回2死までこぎつけた。
 槙原は、落ち着いて最後の打者も1塁のファールフライに打ちとって完全試合を達成した。
 これは、1978年の今井雄太郎以来16年ぶり、巨人では史上初の完全試合を達成した藤本英雄以来44年ぶりとなった。もちろん、槙原の外出禁止は解かれた、という。


 E伝説の10.8で先発

 1994年、一時独走態勢に入っていた巨人も、打撃陣の不調が響いて10月8日時点でわずか1試合を残して中日と並ばれてしまう。
 そして130試合目に勝った方が優勝という緊迫した中で10月8日の巨人×中日戦が行われた。
 先発は、中日が今中、巨人が槙原だった。
 試合は、2回に四番落合博満の先制本塁打などで2点リードするが、その裏、槙原も打たれて同点に追い付かれる。巨人は槙原をあきらめて2回に早くも斎藤をマウンドに送り込んだ。
 3回には再び落合のタイムリーでリードを奪い、その後もリードを広げた。斎藤は槙原の後を受けてから6回終了時点まで5回3安打1失点と好投。
 7回から斎藤に代わって桑田がリリーフのマウンドに上がり、そのまま無失点で切り抜けて3本柱をすべて投入した巨人が6×3で勝ち、優勝を決めた。


 F1994年日本シリーズMVP

 1994年の日本シリーズは、巨人×西武の戦いとなった。第1戦を大敗した巨人は、第2戦の先発に槙原を立てた。
 槙原は、期待に応えて西武打線を4安打完封。1回裏に挙げた1点を守り抜いた。
 そして、巨人の3勝2敗で迎えた第6戦では先発の槙原が再びの好投を見せ、3−1で勝利し、日本一を決め、槙原は胴上げ投手となった。
 槙原の成績は、2試合で2勝、防御率0.50で、文句なしのMVP獲得だった。
 



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