前田 智徳
 1971年6月、熊本県生まれ。外野手。右投左打。背番号51→31→1。熊本工業高校では2年春、夏、3年夏と3度にわたって甲子園に出場を果たす。1990年、ドラフト4位で広島に入団する。
 1年目は、56試合出場に終わるものの、2年目の1991年にはレギュラーを獲得し、打率.271、14盗塁、30犠打を記録して広島のリーグ優勝に貢献する。
 3年目の1992年には打率.308、19本塁打、89打点、18盗塁の活躍で初の打率3割を記録し、チームの中心選手となる。
 1993年には打率.317、27本塁打、背番号が1となった1994年には打率.321、20本塁打で打率リーグ2位という高い水準の成績を残し、タイトル獲得も間近と思われた。
 しかし、1995年5月、試合中に右アキレス腱を断裂し、長期離脱を余儀なくされる。長いリハビリを経て1996年に打率.313、19本塁打を記録して復活を果たす。
 1997年には打率.335、24本塁打、80打点を残して打率リーグ2位となる。1999年にも打率.301を残して4年連続打率3割を記録する。
 しかし、2000年、今度は左アキレス腱を痛めて手術することになり、2001年のほとんどを棒に振る。
 それでも、2002年、打率.308、20本塁打で復活を果たすと、2004年に打率.312、2005年には打率.319、32本塁打、87打点を残す。
 2006年には打率.314、23本塁打を残し、通算11度目の打率3割を達成する。
 2007年9月、通算2000本安打を達成する。
 2012年には代打の切り札として打率.327の好成績を残す。2013年4月に試合中の死球による左手首骨折でシーズンをほぼ棒に振り、現役を引退した。

 誰もが認める卓越した打撃技術を持ち、動じない構えから抜群の体重移動と無駄のないスイングで、高いアベレージを叩き出し、長打が多いのに三振が少ない理想的な打者である。故障するまでは走攻守が揃った万能選手だったが、故障後も打撃は、毎年安定した好成績を残し続けた。

通算成績(実働23年):打率.302、295本塁打、1112打点、2119安打。ベストナイン4回(1992〜1994、1998)ゴールデングラブ賞4回(1991〜1994)


数々の伝説


 @3度甲子園に出場

 前田は、強豪校として知られる熊本工業高校で2年生の春から甲子園に出場を果たす。しかし、甲子園では初戦敗退し、夏の大会でも初戦敗退に終わる。 
 3年生の夏には、主将として県大会で打率.611と打ちまくって、3度目の甲子園出場を果たす。そして、初戦で日大三島高校と対戦し、前田は、5打数2安打3打点を挙げる活躍を見せて13−4でついに勝利をつかんだ。しかし、前田は、この試合で本塁打にできるはずの投球を打ち損じたことで落ち込んでいたという伝説がある。
 2回戦では吉田高校の井出投手に4打数無安打に抑えられて1−3で敗退した責任を感じ、チームメイトの前で謝罪したと言われている。
 前田の打撃センスには多くのプロ球団が注目していたものの、甲子園で大活躍とまでいかなかったせいか、ドラフト4位という下位指名によって広島に入団することになる。


 A天才の称号

 前田には常に「天才」という称号がつきまとう。それは、長嶋茂雄、落合博満、イチローという3人の天才打者に「天才」と呼ばれたところから世間に広く浸透したようである。
 特に落合博満は、現役時代から前田の打撃技術を高く買い、野球選手が手本とすべき最高のフォームだと絶賛している。また、イチローは、自らが天才と呼ばれることに対し、真の天才は前田だけという旨の発言をしている。

 しかし、前田自身は、そうした高い技術が天賦の才能ではないととらえている。実際、プロ入り時点で一流の高度な技術を持ってはいたが、それを超一流のレベルにまで磨き上げたのは、人並み外れた練習量と研究、努力の積み重ねによるものだからである。前田は、天才と呼ばれることに対しては戸惑いを見せており、前田の野球人生は、3割以上打って当たり前という周囲の評価に対する闘いでもある。


 B涙の本塁打とお立ち台拒否

 1992年9月13日の巨人戦の5回裏、前田は、川相のセンターへ飛んだ打球に突っ込んで捕ろうとしたが後逸してしまい、ランニング本塁打となって1−1の同点に追いつかれる。前田は、このとき悔し涙を流していたと言われている。
 しかし、そのミスを取り返そうと8回表1死1塁の場面で前田は、起死回生となる決勝2ラン本塁打を叩き込む。前田は、そのときダイヤモンドを回りながら涙を流していた。
 試合は、そのまま3−1で広島が勝利する。
 しかし、前田は、試合後のヒーローインタビューに呼ばれながらも、断固として拒否し、お立ち台に立つことはなかった。
 前田が本塁打を放ったとき、既に先発投手の北別府学は、マウンドを降りており、勝ち星がつかなかった。つまり、勝ち投手の権利を消してしまうというミスを取り返せたわけではなかったのである。
 前田にとっては、あくまで最低限の仕事をしたのみであり、本来であれば6回表の打席で打って、北別府に勝ち星をつけなければならなかったという想いが強くあったからである。


 Cアキレス腱断裂と復活

 1995年5月23日ヤクルト戦の1回、セカンドゴロを放って1塁へ走っている途中、前田は、右足のアキレス腱を断裂して倒れこんだ。3週間前のヤクルト戦で痛めていた箇所で、前田の全力プレーが大きな故障を生んでしまったのだった。
 翌日、手術をした前田は、その後シーズン終了までリハビリに費やすことになり、わずかシーズン25試合出場に終わる。
 しかし、前田は、翌年、復帰する。守備、走塁面では故障前のようなプレーはできなかったものの、打撃では打率.313、19本塁打という見事な成績を残したのである。成績を残したとはいえ、前田にとっては、故障前の打撃にはもはや戻らないという感覚を持っていた。故障前なら苦もなくできていた瞬時の動作ができなくなってしまったからである。


 D2度目の故障と復活

 右足のアキレス腱断裂から復帰後、前田は、1998年に打率.335、24本塁打、80打点を挙げる活躍で打率2位になるなど、4年連続3割以上という安定した成績を残していた。
 しかし、右足をかばうあまり、2000年には左足のアキレス腱を痛め、7月27日には左アキレス腱鞘滑膜除去手術を余儀なくされる。この年、以後の全試合を欠場した前田は、79試合出場に終わり、2001年も27試合出場に終わったのである。
 それでも、2002年、前田は、123試合出場を果たし、打率.307、20本塁打の好成績を残して、再び復活を果たした。この年、前田は、カムバック賞を受賞している。


 Eロペスによる暴行事件

 思うように体を動かせない苦悩は、不運にもひとつの事件を引き起こすことになる。2002年、アキレス腱の故障から復活を目指す前田は、4月6日の中日戦に先発出場する。そして、前田は、8回裏無死の打席で、その日2本目となる2塁打を放つ。スコアは、2−8と6点差を追っている。次打者のロペスは、センター前ヒットを放ち、無死1、3塁とチャンスが広がった。その後、四球やヒットにより、広島に3点が入ることになったが、ベンチに戻ったロペスは、前田に激しく詰め寄り、つかみかかろうとした。2塁ランナーだった前田がロペスのヒットによって本塁を狙わなかったことに腹を立てたのである。
 結果的には前田が3塁で止まってチャンスを広げ、投手にプレッシャーをかけることで3得点につながったのだが、当時、ロペスは、球団と出来高払いの契約を結んでおり、打点に関しても対象となっていた。ロペスは、前田が本塁へ走らなかったせいで自らの打点とならず、1打点損したととらえたのだった。実際、2回にも前田が2塁打を放った後でロペスがセンター前ヒットを放ったが、前田が3塁で止まったため、ロペスに打点は付かなかった。
 
 前田にとっては、アキレス腱の故障から復帰したばかりで足に負担をかけれらないことや、ランナーをためて投手にプレッシャーをかけるという意図があっての3塁ストップであった。そのため、山本浩二監督は、ロペスが自らの個人成績のみを考えて起こした行動と判断し、ロペスの2軍降格と10日間の謹慎処分を発表した。


 F広島史上最高のアベレージヒッター

 前田は、入団して以降、ずっと広島でプレーし続ける生え抜きプレーヤーである。川口和久、江藤智、金本知憲らが他球団へ移って行く中、前田は、度重なる故障での長期欠場がありながら、常に自らを支援してくれた球団への思い入れもあってか、2000年にFA権を取得してからもFA宣言をせずに広島に残留し続けている。
 タイトルこそ獲得してはいないものの、1998年にはシーズン猛打賞23回のセリーグ記録を樹立するなど、故障時以外のバッティングの安定感は群を抜いている。2006年末時点で、既にシーズン打率3割以上を11回も記録している。
 しかも、2000本安打を放った時点で通算打率が3割を超えていたのは、広島では前田が初であり、広島史上最高のアベレージヒッターへの道を歩み続けている。


 G少ない三振数

 前田は、高い打撃技術を裏付けるものとして、打撃練習するバットの特定の一部分だけにしかボールの跡がついていない、という伝説がある。そして、記録で言えば、1997年、1999年、2002年、2004年から2007年と、7度もリーグ最少三振数に輝いている三振数の少なさである。
 三振数の少なさは、過去を遡れば、前田の母校熊本工業高校の大先輩である川上哲治のシーズン6三振が有名だが、当時はまだ落ちる球がそれほど普及していなかったという状況もあり、比較するのは困難である。
 ほとんどの投手が有効な落ちる球を持っている現代において、前田は、シーズン三振数が30台前半から40台前半で安定しており、この三振数の少なさは驚異的である。


 H通算2000本安打達成

 2007年9月1日の中日戦で前田は、ホームの広島市民球場に詰め掛けた3万人の大観衆に見守られて通算2000本安打を達成する。
 最初の4打席はいずれも凡退に終わっていたが、8回裏2死満塁で回ってきた第5打席で久本祐一投手からついに2点タイムリーヒットをライト前に運び、試合の行方を決定付けると同時に大記録を達成したのである。チームメイトが前田まで打席を回そうと必死になった結果、広島はこの回8得点を挙げるビッグイニングを作り、14−7で勝利を収めている。
 前田の通算2000本安打達成は、プロ野球史上36人目(日本人大リーガーを含めれば38人目)の快挙で、無冠のまま達成したのは通算5人目である。




(2007年9月作成)

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