桑田 真澄
 1968(昭和43)年4月、大阪府生まれ。右投右打。投手。背番号18。PL学園高校で1年生からエースとして5季連続甲子園出場。2度の優勝と2度の準優勝を誇る。甲子園20勝は、戦後最多であり、甲子園6本塁打も史上2位である。
 チームメイトで甲子園13本塁打という歴代1位の記録を残した清原と並んで恐れられ、二人の頭文字をとって「KKコンビ」と呼ばれた。
 1986年ドラフト1位で巨人に入団。1年目こそ2勝に終わるが、2年目の1987年には本領を発揮。15勝を挙げて最優秀防御率のタイトルを獲得し、沢村賞にも選ばれる。
 以来、巨人のエースとして6年連続二桁勝利をするなど活躍。斎藤雅樹、槙原寛己と共に「先発の3本柱」と呼ばれた。
 1994年には14勝をあげて最多奪三振王にもなり、チームのリーグ優勝に貢献してMVPを獲得。特に伝説の10.8決戦では、七回から登板して中日打線を抑え、胴上げ投手となった。
 しかし、1995年、試合中に飛球に飛びついた際、右肘を痛めて手術。その年と翌年の2年間を棒に振ったが、1997年に10勝して復活。この年からFAで移籍してきた清原とのKKコンビが復活している。
 翌年には最多勝にあと1勝と迫る16勝をあげた。
 その後、中継ぎ・抑えに回る時期があったものの、2002年には再び先発として12勝6敗、防御率2.22という安定した成績を残して最優秀防御率のタイトルを15年ぶりに獲得している。
 2006年終了後、大リーグ挑戦を表明し、パイレーツとマイナー契約を交わした。
 2007年、パイレーツで大リーグに昇格し、当初はセットアッパーとして活躍を見せるが、シーズン途中で調子を崩して退団。2008年もパイレーツと再契約してオープン戦で好投したが、開幕大リーガーの登録から外れ、現役を引退した。

 理想的で美しいと言われるフォームから投げ込まれる低めに伸びる直球と大きいカーブを中心に、コーナーに投げ分ける巧みな投球術で高校野球でもプロ野球でもファンを魅了しつづけた。また、フィールディングなどの守備のうまさと打撃力にも定評があった。

 通算成績 日本(20年):173勝141敗14セーブ。防御率3.55。1980奪三振。最優秀防御率2回(1987・2002)、MVP1回(1994)、奪三振王1回(1994)。最優秀勝率1回(1997)。ベストナイン1回(1987)。ゴールデングラブ賞8回(1987・1988・1991・1993・1994・1997・1998・2002)。沢村賞1回(1987)。
大リーグ(1年):0勝1敗、防御率9.43、12奪三振
日米通算(21年):173勝142敗、防御率3.59、1992奪三振
数々の伝説

 @小学生時代から別格

 小学生時代、桑田の所属するチームの監督は、投手に集中力をつける為に目隠しをして投球をさせていた。桑田は、目隠しをしても全くコントロールが乱れず、カーブでさえもきっちりキャッチャーの構えるところへコントロールされたという。そういう投球ができたのは、前にも後にも桑田だけだったという。


 APL学園で1年生エースとして全国制覇

 1983年の7月26日、PL学園は、夏の甲子園を目指しての大阪大会4回戦の吹田高戦を迎えた。1年生だった桑田は、PL学園の中村監督から急遽、先発を言い渡される。
 桑田の背番号は17。それまで試合中はバットボーイをやっていた。だが、3回戦までに登板した3人の上級生投手は疲労困憊のため、投げられない状態になっていた。
 桑田は、この試合で負ければ夏が終わってしまう上級生のプレッシャーを受けながら6対0で吹田高を完封する。
 その勢いで大阪大会を制覇した。
 そして、甲子園でも全試合に登板。強打の池田高校を5安打完封するなど、好投につぐ好投で1年生エースとして全国制覇を果たした。


 B甲子園20勝

 1983年の夏の甲子園で優勝した後、5季連続出場を果たしている。これは、出場できるすべての甲子園大会に出場しているということである。
 1984年のセンバツでは準優勝、夏の甲子園では名将木内監督率いる取手ニ高に延長戦の末、敗れて準優勝となっている。1985年のセンバツではベスト四だったが、最後になった夏の甲子園では見事優勝を飾っている。
 桑田は、打撃の方も素晴らしく、甲子園では6本塁打を放ってもいる。実は、この記録はチームメイトだった清原和博の13本に次いで歴代2位の記録なのである。
 甲子園での合計20勝3敗は、戦後の甲子園最多勝であり、戦前の中京商業で三連覇を成し遂げた吉田正男投手の22勝に次いで歴代2位の勝利数を誇っている。特に夏の甲子園では優勝・準優勝・優勝とほぼ完璧な成績を残している。
 当然、府大会では無敗であり、本人は当時を振り返って、「府大会では負ける気がしなかった」と述べている。


 Cドラフト1位で巨人入団

 高校卒業後は、早稲田大学に入り、その後プロ入団という青写真を描いていた桑田は、ドラフト前から早稲田大学進学を希望。高校時代の実力ではまだプロでやっていけないと考えていたからである。
 周囲も、そうなるものと思っていたが、清原を1位指名すると公言してきた巨人が、何と桑田を1位指名。
 指名された桑田は、迷った末に大学進学をせずに巨人へ入団。逆に巨人入団を希望していた清原は、西武に1位指名されて入団した。この1件から桑田は、マスコミによって悪役に仕立て上げられ、事あるごとに叩かれることになる。


 D2年目に沢村賞

 1987年、桑田は、高卒の投手ながら早くもプロ2年目で甲子園20勝の実力をいかんなく発揮し、15勝6敗、防御率2.17という好成績を残し、最優秀防御率のタイトルを獲得。
 チームも、4年ぶりのリーグ優勝を果たしている。
 そして、その年最高の成績を残した投手に贈られる沢村賞にも選ばれることになった。


 E内野ゴロ20個のプロ野球記録

 1990年6月2日、桑田は、1回の野村謙二郎をニ塁ゴロに打ち取ると、順調に内野ゴロの山を築き、9回に長嶋清幸をショートゴロに打ち取るまで合計20個もの内野ゴロを打たせた。
 これは、歴代1位の記録である。
 桑田自身、「理想の投球は打者全員を内野ゴロにきってとること」と話している。


 F伝説の10.8決戦で胴上げ投手

 1994年、一時独走態勢に入っていた巨人も、打撃陣の不調が響いて10月8日時点でわずか1試合を残して中日と並ばれてしまう。
 試合は、四番落合博満の先制本塁打などで2点リードするが、巨人の槙原寛己も打たれて同点に追い付かれる。
 3回には再び落合のタイムリーでリードを奪い、7回から2番手投手の斎藤雅樹に代わって桑田がリリーフのマウンドに上がった。
 桑田は、ほぼ完璧な内容で3回を無失点に抑えて6対3で勝利。胴上げ投手になるとともに、14勝11敗、防御率2.52の好成績で、その年のMVPに選ばれることになった。


 G右肘故障からの復活

 1995年6月、桑田は、投手前に上がった小飛球をダイビングキャッチしようとした際、右肘を故障してしまう。
 後の投手生命を考えた桑田は、アメリカでの手術に踏み切り、1995年のほとんどと、1996年の約2年間を棒に振ってリハビリに励む。桑田がボールを投げられないときに、走り込みを続けたところは芝がはげて「桑田ロード」と呼ばれたと言われている。
 1997年4月6日、約2年ぶりにマウンドに戻ってきた桑田は、膝をつき、プレートに右肘を当てて再び登板できる喜びを表わし、復活の一歩を記した。故障前よりは球速が落ちたものの、巧みな投球術で10勝をあげ、ゴールデングラブ賞にも輝いた。


 H最多勝争いの中で

 1998年の桑田は、故障後の球数制限をなくし、故障前のペースで先発完投型で投げることになった。完全復活を果たした桑田は、順調に勝ち星を重ね、最多勝争いに加わる。
 最多勝を争っているのは、ヤクルトのエース川崎憲次郎だった。
 巨人の首脳陣は、何とか桑田に最多勝のタイトルを獲らせようと、勝ち試合にリリーフで起用して勝ち星を増やすことを計画する。
 しかし、桑田は「そんなことまでして獲ったタイトルには価値がないから」という理由でこれを拒否する。その結果、桑田は16勝で川崎の17勝にわずか1勝及ばず、最多勝を逃すが、最高勝率のタイトルは手にしている。


 I15年ぶりの最優秀防御率タイトル

 2002年、桑田は、原辰徳監督から先発起用を明言され、水を得た魚のようによみがえる。4月19日の阪神戦を1−0で投げ勝つと投げる試合すべてで好投し、開幕当初は谷間だったのがオールスター後にはエースと呼ばれるまでになっていた。
 この活躍の裏には、武術や歌舞伎を取り入れた無駄のない投法、つまり体の捻りをなくしてコンパクトな投げ方を完成させたことにある。これは、それまでの投手の常識を覆す画期的な転換だった。
 シーズン終了時の防御率は何と2.22で、1987年以来、15年ぶりに最優秀防御率のタイトルを手にした。この15年ぶりのタイトル獲得は、村田兆治の13年ぶりタイトル獲得(1976・1989年最優秀防御率)を抜いて、歴代1位の記録である。



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