黒田 博樹
 1975年2月10日、大阪府生まれ。投手。右投右打。背番号15(広島)→18(ドジャース・ヤンキース)→15(広島)。上宮高校では控え投手で、専修大学進学後、3年生からエースとして活躍し、東都大学1部リーグへの昇格に貢献する。
1997年にドラフト2位で広島に入団する。
 1年目から1軍で先発ローテーションに入り、6勝9敗、防御率4.40の成績を残す。2年目は低迷したものの、3年目に5勝を挙げると、4年目の2000年には9勝6敗、防御率4.31を残し、リーグ最多の7完投を記録する。
 2001年には12勝8敗、防御率3.03の好成績を残し、13完投でリーグ2年連続最多完投を記録する。
 2002年にも10勝して8完投でリーグ最多完投、2003年には13勝を挙げる。
 2005年には15勝12敗、防御率3.17の成績で最多勝に輝く。
 2006年には13勝6敗、防御率1.85の好成績を残して最優秀防御率のタイトルを獲得する。
 2007年に12勝8敗、防御率3.56の成績を残したオフにFA宣言で大リーグのドジャースに移籍する。
 2008年はドジャースで先発ローテーションに入って9勝10敗の成績を残して地区優勝に貢献すると、2009年には8勝で地区優勝に貢献する。
 2010年には11勝、2011年には13勝と成績を伸ばす。
 2012年には名門ヤンキースへ移籍し、16勝11敗、防御率3.32の好成績を残して地区優勝に貢献する。2013年にも11勝、2014年にも11勝を挙げ、日本人大リーガー初の5年連続2桁勝利を達成する。
 2015年にはパドレスの約21億円という提示を蹴って古巣広島と約4億円で契約する。そして、広島復帰1年目から11勝8敗、防御率2.55の好成績を残す。
 2016年には7月23日に日米通算200勝を挙げるなど10勝8敗、防御率3.09の好成績で広島の25年ぶりのリーグ優勝に貢献した。2016年限りで現役を引退。

 150キロを超える速球やフォーク、スライダーを中心に絶妙のコントロールで凡打の山を築き、日本でも大リーグでも安定した成績を残す投手である。大リーグ移籍前はミスター完投と呼ばれるほどで、大リーグでもほぼ毎年200回程度投げるタフネスぶりを発揮した。

通算成績(日本:13年)124勝105敗、防御率3.55、1461奪三振。最多勝1回(2005)最優秀防御率1回(2006)ベストナイン1回(2005)ゴールデングラブ賞1回(2005)
(大リーグ:7年)79勝79敗、防御率3.45、986奪三振。
(日米通算:20年)203勝184敗、防御率3.51、2447奪三振。

数々の伝説


 @プロ初登板で先発完投勝利

 1997年、広島に入団した黒田は、ウエスタンリーグで2勝を挙げ、先発投手陣が手薄な1軍に昇格する。
 そして、4月25日、黒田は、新人ながら巨人戦で初登板初先発のマウンドに上がる。巨人は、3番松井秀喜、4番清原和博という強力な重量打線で、2試合連続2桁得点中だった。しかし、黒田は、臆することなく、直球主体の投球で巨人打線を抑え込んでいく。広島打線が4回までに5点を奪って援護すると、黒田も5回に1点を失っただけで快投を続ける。
 継投を考えていた首脳陣の計算を狂わせるほどの投球で9回を6安打9奪三振1失点に抑えた黒田は、6−1で完投勝利を挙げ、初登板初先発初勝利を飾った。


 Aミスター完投

 黒田は、弱小チームだった広島のエースとして、長年奮闘した。選手層の薄さをカバーするため、できる限り完投することを自らに課して実践した。
 そのため、2000年に7完投でリーグ最多完投を記録すると、2001年には13完投、2002年にも8完投で3年連続リーグ最多完投を記録する。さらに、2004年に7完投、2005年に11完投、2007年に7完投でリーグ最多完投を6度も記録した。
 あまりの完投数の多さに、黒田は「ミスター完投」と呼ばれることになる。


 B優勝チームを翻弄

 2006年の黒田は、夏場に好調を維持し、7月に4勝無敗、8月にも4勝無敗というすさまじい投球を見せた。9月には右肘を故障してしまったものの、この年、13勝6敗、防御率1.85の好成績を残し、初の最優秀防御率のタイトルを獲得する。
 この年は、中日が強力打線を組んでリーグ優勝を果たしているが、黒田は、7月2日の広島×中日戦でいとも簡単に3安打完封した。
 試合後、中日の落合監督は、インタビューで「今日の黒田は、俺が現役のときでも打てない。だから、うちの選手が打てるわけがない」と脱帽した。


 C国内なら生涯広島を宣言

 2006年オフ、黒田は、FA権を取得した。しかし、黒田は、迷った末、広島相手に投げる姿を想像できない、という理由からFA宣言をせず、残留を決める。
 黒田は、記者会見を開いて広島への恩義とファンへの想いを語り、大リーグ挑戦願望はあるものの、国内他球団への移籍はないことを断言した。
 広島ファンは、黒田残留を願って、ファンたちの気持ちを代弁した巨大な横断幕を掲げ、背番号15のプラカードも大量掲示した。そして、割れんばかりの大声援を送り、移籍を迷っていた黒田の心を動かしたのである。


 D4年契約を3年に短縮して大リーグ挑戦

 2007年、12勝を挙げた黒田は、夢だった大リーグ挑戦を決意する。しかし、希望球団はなく、広島ファンへの想いを聞かれると感謝を述べ、涙を流した。
 黒田獲得に乗り出したドジャースが提示した条件は、4年契約だったが、黒田は、最初の3年で必ず結果を残すと決意し、3年契約への短縮を申し出て3年契約となった。球団の提示した長期契約を選手が短縮するのは極めて異例であり、黒田の大リーグ挑戦に賭ける意気込みを示していた。
 そんな黒田に、地元の広島テレビは、番組の中で「広島は、黒田博樹を失うのではなく、どこまでも進化する男の目撃者になれる」と賛辞を贈った。
 広島から初の日本人大リーガーとなった黒田は、3年間を通じて先発ローテーション投手として安定した結果を残し、通算28勝を挙げて、4年目の契約を手にすることになる。


 E日米通算2000奪三振達成

 黒田は、渡米前の広島では150キロを超える直球を主体にフォークボールとのコンビネーションで安定して三振を奪っていった。また、投球回数が多かったこともあって、2000年から2007年まで8年連続100奪三振以上を記録し、11年間で1257奪三振を積み重ねた。
 大リーグのドジャースに移籍してからは、シンカーを磨いたことで3年目から奪三振を増やし、2012年には自己最多となる167奪三振を記録する。
 そして、黒田は、2013年6月7日のマリナーズ戦の2回に三振を奪い、ついに日米通算2000奪三振を達成した。


 F大リーグで日本人初の5年連続2桁勝利を達成

 大リーグでは1年目から9勝、8勝と2桁に届かなかった黒田は、研究を重ねてピッチングを大きく変える。
 完投へのこだわりを捨て、それまではシュートで右打者を詰まらせて打ち取るスタイルだったのをシンカーで空振りやゴロに仕留めるスタイルに変えた。これは、日本ならシュートで詰まらせて打ち取れても、大リーグでは詰まってもしばしばパワーで外野スタンドまで運ばれてしまうためである。
 シンカーを自分のものとした黒田は、大リーグ3年目から防御率も向上させ、その年に11勝で2桁勝利を挙げると、ヤンキースに移籍した2012年には16勝を挙げる活躍を見せる。そして、2014年に11勝を挙げるまで5年連続2桁勝利を記録した。これは、野茂英雄の3年連続を更新する日本人初の快挙だった。


 G大リーグの約21億6000万円提示を蹴って約4億円提示の広島復帰

 2014年オフ、黒田は、ヤンキースからFAとなり、ヤンキースが再契約を希望したほか、ドジャースが約19億2000万円(1600万ドル)、パドレスに至っては約21億6000万円(1800万ドル)を提示した。
 しかし、大リーグで活躍できる状態のうちに古巣広島に復帰することを考えていた黒田は、大リーグの巨額提示に到底及ばない広島の4億円提示にサインし、広島復帰を果たす。
 大リーグの巨額契約を蹴って、5分の1以下の年俸で日本球界に復帰するのは前代未聞であり、育ててくれた広島への恩返しとして日本球界復帰を決めた黒田には、広島ファンだけでなく多くのプロ野球ファンが歓喜した。


 H日米通算200勝を達成し、25年ぶりのリーグ優勝に貢献

 2016年7月23日、黒田は、マツダスタジアムでの阪神戦に先発する。この日までに日米通算199勝を挙げていた黒田は、7回を5安打9奪三振、無失点に抑えてシーズン7勝目を挙げるとともに、日米通算200勝を達成した。広島打線も、1回に3点、3回に4点を奪うなど強力に援護し、7−0で圧勝した。
 日米通算200勝は、野茂英雄以来、史上2人目の快挙である。

 イチローは、ヤンキース時代の同僚黒田の快挙に、自身へのピート・ローズの暴言をジョークにして「日米合算なんて俺は認めない!おめでとう」と称賛した。
 黒田は、この年で引退するものの、シーズン10勝を挙げて、広島の25年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。



(2015年2月作成)

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