ウォーレン・クロマティ
 1953年9月、アメリカのフロリダ州生まれ。外野手。左投左打。背番号49。マイアミ・デート短大を経て大リーグの1974年にエクスポズ入団。3年目まではマイナーとメジャーを行き来していたが、4年目からメジャーでレギュラーに定着。
 5年目の1978年に打率.297、10本塁打、56打点でレギュラーの座を不動のものとした。
 1980年には打率.288、14本塁打、70打点の活躍を見せている。
 1983年のシーズン後、FA宣言。大リーグの通算成績は、打率.280、60本塁打。
 日本の巨人が彼を獲得し、就任1年目の王貞治監督の下で現役大リーガーとしてアベレージヒッターの期待を受ける。
 1年目の1984年は、打率.280、35本塁打、93打点とホームランバッターとしての素質を印象づける活躍を見せた。
 2年目には本来のアベレージヒッターとして3割を超える打率を残していたが、終盤に右肩鎖骨骨折で戦列を離れた。それでも32本塁打、112打点を残し、打点ではリーグ2位だった。
 3年目の1986年には打率.363、37本塁打、98打点と、3冠王をとってもおかしくないような好成績を残したが、阪神のバースが驚異的な成績で3冠王を奪っていったため、無冠に終わっている。
 1987年にも打率.300、28本塁打、92打点というまずまずの成績を残して、チームのリーグ優勝に貢献。
 1988年は、6月に阪神の久保投手から死球を受けて、そのシーズンを棒に振っている。
 しかし、1989年は鮮やかに復活。開幕当初からヒットを量産し、一時は日本球界初の4割打者の期待がかかったが、後半に失速し、.378に終わった。しかし、それでも初の首位打者を獲得。166安打もその年の最多安打で、チームも優勝したため、シ−ズンMVPに選ばれている。 
 1990年のリーグ優勝にも貢献したが、シーズン終了後に引退を宣言して帰国。
 1年間大リーグのロイヤルズでプレーした後、現役引退。

 体をホームベース上に覆い被さるように構える独特のクラウチングスタイルは、話題を呼び、本塁打も打てるアベレージヒッターとしてチームを引っ張った。また陽気なキャラクターとヘッドスライディング、観客との万歳三唱などで、ファンから最も愛された外国人選手との評価も高い。
 
通算成績(日本:実働7年)打率.321、171本塁打、558打点、1104安打。首位打者1回(1989)MVP1回(1989)最高出塁率1回(1989)最多勝利打点2回(1984・1986)ベストナイン3回(1986・1987・1989)最多安打1回(1989)1985年オールスター第2戦MVP
 (大リーグ:実働11年)打率.281、61本塁打、391打点、951安打。
(日米通算:実働18年)打率.298、232本塁打、949打点、2055安打。


数々の伝説


@現役ばりばりの大リーガー

 クロマティは、それまでに来日したマイナーリーガーや盛りを過ぎた元大リーガーではなく、現役として第一線で活躍しているプレーヤーだった。
 大リーグでの成績は、9年間で.280、61本塁打(2年目の1年間はマイナー出場のみ)。1981年には長いストライキがあったせいで99試合出場ながら打率.304という高打率を残している。
 FA宣言のときも、サンフランシスコ・ジャイアンツとの契約交渉が進んでいたが、競争相手が日本の巨人ということで、年俸を値切ってきたため、日本の巨人入りを決断したと言われている。
 そのため、多大な期待を背負って、王貞治政権発足1年目に巨人に入団してきた。
 狭い日本の球場では、1年目から本塁打を量産できることを見せつけて35本塁打。その後、3年連続30本塁打以上の成績を残した。
 そして、3年目にようやくアベレージヒッターとしての本領を見せ、打率.363という高打率を残した。にもかかわらず、この年はバースが打率.389という日本記録を打ち立てたため、リーグ2位に終わっている。
 だが、この打率.363で2位という記録は、打率2位としての最高打率日本記録となっている。  


 A病院から抜け出して満塁本塁打
 
 1986年10月2日、クロマティは、ヤクルト戦で高野光投手から右側頭部に死球を受けて、その場に倒れた。クロマティは、担架で運び出され、慶応病院に搬送されて、そこで一夜を明かすこととなった。
 しかし、翌日、クロマティは病院を抜け出し、何とベンチ入り。打撃練習こそしなかったが、6回裏の3−3、2死満塁のチャンスで代打として打席に立った。
 尾花高夫投手の投げた4球目。クロマティの一振りはセンターのスタンドに突き刺さる勝ち越し満塁本塁打となって、感動のナインに迎えられた。興奮したナインは、クロマティがCTスキャンを撮ったばかりであることを忘れ、クロマティの頭に手荒い祝福をした、という。

 
 B怒りの右ストレート

 1987年6月11日、熊本の藤崎台球場で行われた巨人×中日戦は、巨人が4−0とリードして7回裏を迎えた。
 2死2塁でバッターボックスに立ったクロマティは、宮下投手から背中に死球を受ける。謝る素振りすら見せない宮下に、怒りが頂点に達したクロマテイは、マウンドへ向かって突進し、宮下の右頬にパンチを見舞った。
 それを見た両軍ベンチからは一斉に選手・コーチが飛び出す。しまいには中日星野監督までが乱闘に加わるという事態になった。
 当然、クロマティは退場処分を受け、宮下もマウンドを下りた。
 連盟は、謹慎7日、罰金30万円という処罰をクロマティに与えた。ちなみに宮下は、この乱闘後、12日間試合を欠場している。


 C最長4割台記録で打率.378

 1989年のクロマティは、開幕当初からヒットを量産し、オールスターを過ぎても打率は4割を超えていた。日本史上初の4割打者誕生の期待が高まっていた。
 クロマティの4割台の打率は、8月21日、96試合目まで続き、当時の最長4割台記録を塗り替えた。
 しかし、4割を切ってからは、調子を落とし、シーズン終了時点には.378となっていた。
 それでも、2位に4分5厘という驚異的な大差を付けての首位打者獲得を成し遂げている。


 D何度もあった退団・引退騒動

 クロマティは、日本で7年間プレーしていたが、常に日本の巨人を退団し、大リーグに復帰する日を心待ちにしていた。来日1年目には2試合を残して帰国。2年目には骨折後、球団の帰国禁止令を振り切って無断帰国。
 そして、3年契約の最後の1986年にはシーズン後の動向が注目されたが巨人が300万ドルの破格の年俸を提示したため、2年契約を結ぶこととなった。
 1989年の最初にもその年限りでの退団を宣言したが、8月まで4割を打ち、.378という好成績を残してシーズンMVPとなったため、残留が決まった。
 そして1990年には、ついに成績が前年より大きく下回ったこともあって、巨人を退団。大リーグのロイヤルズに入団している。


 Eファンに最も愛された外国人選手

 クロマティが愛されたのは、観客に対する数々のパフォーマンスと、陽気な人柄によるものだった。
 中畑清の「絶好調」という文句を真似て自分も使い、二塁打を打てば、する必要もないのに豪快なヘッドスライディングで盛り上げる。
 本塁打を打てば、スタンドのファンに向かって派手なガッツポーズを決める。
 その後、守りについてからライトスタンドの観客と一体になった万歳三唱のパフォーマンス。
 そして、何よりもファンを魅了したのは、芸術的なヒットを放った後で投手に対してみせた、自分の側頭部を2度つついて「君とは頭が違うんだよ」をいうジェッシャー。
 この投手を威嚇しているとも馬鹿にしているともとれるパフォーマンスは人気を呼び、大洋のエース遠藤一彦投手には三振に打ち取られたときに逆にそのパフォーマンスをやって見せられている。




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