工藤 公康 
 1963年5月、愛知県生まれ。投手。左投左打。背番号47(西武)→21(ダイエー)→47(ダイエー・巨人・横浜)→55(西武)。名古屋電気高校(現愛工大名電)で3年生のとき甲子園に出場し、ベスト4。1982年ドラフト6位で西武に入団。
 4年目の1985年に頭角を現し、8勝3敗、防御率2.76の成績で最優秀防御率のタイトルを獲得。
 5年目の1986年には初の二桁勝利で11勝5敗の好成績を挙げ、その年の日本シリーズでも1勝2セーブの活躍でMVPを獲得。一気に西武のエースに登り詰めた。
 1987年には15勝4敗、防御率2.41の成績で最高勝率と最優秀防御率の2つのタイトルを獲得。日本シリーズでも2勝1セーブ、防御率0.48の驚異的な成績で2年連続のシリーズMVPを手にした。
 その後も、西武の黄金時代を支えるエースとして、合計8度のリーグ優勝と6度の日本一に貢献。
 特に1993年には15勝3敗、防御率2.06の成績で最高勝率と最優秀防御率の2冠とシーズンMVPを獲得している。
 1994年末にFA宣言でダイエーに移籍。1999年に11勝7敗、防御率2.38の成績でダイエーのリーグ初優勝と初の日本一に大きく貢献。最優秀防御率と奪三振王、シーズンMVPを獲得している。
 そして、その年のオフにまたもFA宣言で巨人に移籍。期待に応えて12勝5敗の成績で最高勝率のタイトルを獲得。チームも日本一になっている。
 2004年8月には通算200勝を達成し、シーズン2桁勝利も記録した。2005年も、42歳にして11勝を挙げている。
 2007年には4球団目となる横浜に移籍し、1年目からローテーション投手として7勝を挙げた。
 2010年には古巣西武に復帰。2011年には左肩のリハビリに専念したが、2011年限りで現役を引退した。

 140キロ台後半の直球と縦に割れるカーブを軸に西武・ダイエー・巨人でエースとして活躍し、自らのトレーニング理論と投球術で42歳まで2ケタ勝利を挙げた奇跡の左腕である。大ベテランとなってもリリーフで活躍を見せ、数々の最年長記録を塗り替えた。

通算成績:224勝142敗3セーブ、防御率3.45。2859奪三振。最優秀防御率4度(1985・1987・1993・1999)最高勝率4度(1987・1991・1993・2000)最多奪三振2度(1996・1999)シーズンMVP2度(1993・1999)日本シリーズMVP2度(1986・1987)ベストナイン3度(1987・1993・2000)ゴールデングラブ賞3度(1994・1995・2000)

数々の伝説

 @3連敗後、サヨナラ安打から奇跡の日本一

 1986年10月23日、西武×広島の日本シリーズの第5戦は西武球場で行われている。
 西武の先発は第1戦に先発した東尾だった。ここまで西武は0勝3敗1引分。
 まだ1勝もしてないどころか、1敗もできない背水の陣である。
 第6戦も1−0でリードという嫌な予感がするような投手戦となった。しかし、7回に1点を返されて同点。そのまま延長戦に入ると、後のない西武は、第2戦に先発した工藤をリリーフで起用した。
 工藤は10回から12回まで無失点に抑える好投を見せる。
 そして、12回裏、工藤は何と自らサヨナラ安打を放って2−1で劇的な勝利。
 これによって、本来の強さを取り戻した西武は、3連敗からの4連勝で日本一を獲得し、工藤はMVPに選ばれている。


 A胴上げパフォーマンスの創始者

 1987年、圧倒的な強さで2位に9ゲームという大差をつけてリーグ優勝した西武は、日本シリーズでも巨人を圧倒。4勝2敗で日本一に輝いた。
 その原動力となったのが工藤で、シーズン15勝4敗、防御率2.41の好成績を挙げた実力を日本シリーズでも見せつけ、2勝1セーブ、防御率0.48という驚異的な成績で2年連続シリーズMVPとなった。
 そして、シリーズ第6戦の胴上げの場面では、1人だけ胴上げに参加せず、森祗晶監督を胴上げする歓喜のナインに背を向けて、テレビカメラに向かって万歳とVサインを繰り返した。工藤は、前夜に同期の相馬捕手を誘ったと言われているが、レギュラーではない相馬がナインに背を向けることはなかった。
 当然、この胴上げシーンは、日本中に何度も放映され、普段から先輩の石毛宏典らと漫才のような言動を繰り返すキャラクターとあいまって、「新人類」の象徴としてもてはやされた。
 そして、胴上げ時にテレビカメラへ向かってアピールするやり方は、その後、真似をする者が続出して、今では当たり前のようになっている。


 B清原の涙を見て外野フライを打たせる

 1987年11月1日、西武×巨人の日本シリーズ第6戦は、西武が勝って日本一となったが、もう一つのドラマが隠されていた。
 第6戦の先発は、工藤だった。工藤は、1点を失ったものの好投を続け9回が始まるまで西武が3−1でリードしていた。
 9回、工藤が簡単に2アウトをとったところで、1塁を守っていた清原は、突如涙を流し始める。
 1年前のドラフト会議で指名を約束しておきながら、裏切って指名しなかった巨人に勝つことができるところまでこぎつけたからである。
 ここで工藤は、冷静に清原のところにボールが飛んでいくと捕球できないと判断。バッターの篠塚利夫には外角勝負で外野フライを打たせることを決めた。工藤の思惑通り、カウント2−1から外角へ投げたスライダーを篠塚は打ち上げてセンターフライとなり、工藤は無事に胴上げ投手となった。


 Cダイエーで日本一

 工藤は、西武では1986・1987年に2年連続シリーズMVPになるなど、入団後、西武で10度のリーグ優勝と8度の日本一を経験している。
 そして、1994年オフにはFA宣言でダイエーに移籍。
 強いチーム作りに自らも進んで取り組み、1999年に念願のダイエー初優勝を達成した。11勝7敗ながら防御率2.38という抜群の安定感とチームリーダーとしての力が評価され、その年のシーズンMVPに選ばれた。
 そして、中日との日本シリーズでも、圧倒的に中日有利との前評判を覆し、第1戦で工藤は中日打線を軽く完封。
 その勢いのまま、4勝1敗で中日を破り、初の日本一を達成している。
 これが工藤自身、2球団目の日本一である。


 D優勝請負人として巨人で3球団目の日本一

 そして、1999年のオフ、2度目のFA宣言をし、「男の花道を飾ってほしい」という長嶋茂雄監督の言葉に迎えられて巨人に移籍。
 優勝請負人として扱われるプレッシャーの中、工藤は12勝を挙げてチームのリーグ優勝に大きく貢献し、最高勝率のタイトルまで獲得した。
 また、この年のベストナインとゴールデングラブ賞にも選ばれ、工藤は、37歳ながらセリーグ最高の投手の称号を手にした。
 そして、巨人は、工藤の古巣ダイエーを4勝2敗で倒して日本一。工藤は、3球団で日本一を経験することになった。


 E自らの本塁打で決めた通算200勝

 2004年8月17日、工藤は、ヤクルト戦に通算200勝目をかけて先発する。1回表と7回表に本塁打を浴びて1−2とリードを許す嫌な展開になる。7回裏、巨人は、ペタジーニの本塁打で同点に追いつくと、2死2塁の場面で工藤に打席が回ってきた。
 この最高の場面で工藤は、ベバリンの直球を思いきり叩いた。伸びた打球は、何とライトスタンドに吸い込まれていった。勝ち越しとなる2ランホームランでスコアは4−2。工藤にとってプロ23年目にして初の本塁打でもあった。
 工藤は、9回を2失点で完投して4−2で勝ち、史上23人目のプロ通算200勝を達成する。通算200勝は、1992年の北別府学以来、12年ぶりの快挙であり、21世紀初の200勝投手となった。また、40歳以上での通算200勝達成は史上初だった。
 衰えを知らぬ工藤は、この年、10勝を挙げて1949年の若林忠志、1990年の村田兆治に次いで史上3人目となる40代2桁勝利を記録した。



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