小山 正明
 1934年7月兵庫県生まれ。投手。右投右打。背番号49・6・14(阪神)→47(阪神・東京・大洋)。高砂高校からテスト生として1953年、阪神に入団。
 1年目に5勝を残すと、2年目には2桁の11勝を挙げて阪神の主力投手となる。
 4年目の1956年に17勝を挙げてエースに成長。1958年には24勝12敗、防御率1.69という素晴らしい成績を残した。
 そして、1962年には27勝11敗、防御率1.66という成績で最優秀勝率のタイトルを獲得。270奪三振で奪三振王にも輝いた。村山実との強力な2本柱で、チームもリーグ優勝を果たしている。この年、5試合連続完封を達成し、47イニング連続無失点という快記録も残した。
 しかし、1963年のオフ、東京の大打者山内一弘との交換トレード「世紀のトレード」が成立し、東京(現ロッテ)へ移籍することになる。
 その移籍1年目にいきなり30勝12敗、防御率2.47の成績を残して最多勝を獲得し、移籍後3年連続20勝以上の記録を残した。
 その後もエースとして活躍し、1970年には16勝を挙げてロッテのリーグ優勝に大きく貢献する。1973年には大洋で4勝を挙げたが、その年限りで現役を退いた。
 2001年、殿堂入り。

 ボール半個分を出し入れする絶妙のコントロールで「精密機械」と呼ばれ、入団6年目からはパームボールを決め球として使い、故障なく投げ続け、常にエースとして君臨した。
 
 通算成績(実働21年):320勝(歴代3位)232敗、防御率2.45。3159奪三振(歴代3位)無四球試合73(歴代2位)無失点勝利74(歴代3位)最多勝1回(1964)最多奪三振1回(1962)最優秀勝率1回(1962)沢村賞1回(1962)
数々の伝説

 @テスト入団

 小山は、高校卒業前に書道の先生をしていた父親が阪神の野田オーナーに毛筆で息子の入団テストを頼む手紙を書いたことがきっかけで入団テストを受けることになった。
 しかし、小山は、阪神からの採用通知が来ないため、他球団の洋松のテストを受けて合格する。
 慌てた阪神は、小山に急いで採用通知を出し、阪神入団が決まった。
 無名の小山は、契約金もなく、当時の女性社員の月給が8000円であったのに対し、わずか月給5000円で契約した。
 阪神としても、当初は打撃投手としての扱いをしていたが、1年目の9月4日の広島戦で初先発すると、軽く完投勝利。その勢いで、5勝した小山は、月給が6倍の3万円となり、エースへの道を歩み始めた。 


 A精密機械

 小山の通算無四球試合73の記録は、鈴木啓示の78試合に次いで歴代2位である。
 変化球でも直球でも、いとも簡単にストライクをとり、まさに針の穴を通すほどの制球力を持っていた。
 テスト生としてプロ入りした小山は、1年目はわずか5勝に終わっているが、先輩の打撃投手として、しごかれながら数多くの球を投げ込んだことで、制球力をつけていったと言われている。
 人々は、この類いまれな制球力を持った小山を「精密機械」と呼び、来日した外国人選手は「スピンコントロールのピッチャー」と賞賛した。


 Bあの天覧試合で先発したが……

 1959年6月25日、プロ野球史上初の天覧試合が行われた。その試合に小山は先発している。
 強打の巨人打線に対して5回に長嶋にシュートを左中間スタンドへ運ばれる1発を浴びたものの、6回2失点に抑え、6回終了時点で4−2と阪神がリードを奪っていた。
 ところが、7回裏、ランナーを1人置いて小山が王に投じたスライダーは右翼席へ飛びこむ同点本塁打となった。
 緊張感からか、いつもの切れがなかった、という小山はここでマウンドを降りている。
 その後、小山の後を受けた村山実が9回裏に長嶋茂雄に劇的なサヨナラ本塁打を打たれたことはあまりに有名である。
 

 C歴代2位の5試合連続完封

 1962年7月、好投を続ける小山は、7月7日から7月22日まで5試合連続完封という戦後の連続完封記録を打ち立てる。
 次の登板で挑戦するのは、戦前の1943年に藤本英雄が作った6試合連続完封という日本記録だった。だが、小山は、巨人の王貞治に2ラン本塁打を許し、ついに記録はストップする。それでも、小山が記録した連続無失点は、実に47イニングになっていた。
 藤本の記録は、戦時中の最も激しいときであり、ボールやバットが劣悪だったことを考えれば、小山の5連続完封はそれに匹敵するものがあったと言える。
 また、小山はこの年、完封試合13というセリーグ記録も作っている。


 D入浴事件

 1962年の日本シリーズは、阪神×東映の白熱した戦いとなった。阪神は、2勝3敗1分という王手をかけられた状態で第7戦の先発に小山を立てた。
 小山は、期待に応えて9回まで東映打線を無失点に抑えるが、阪神も点を奪えず、試合は緊迫した0−0のまま延長戦へ突入する。
 10回表、ついに小山は、一死満塁から犠牲フライを打たれて1点を失った。
 10回163球を投げた小山は、コーチから代打攻勢をかけるので交代いう旨の言葉を受け、ロッカールームへ退いた。
 しかし、10回裏、阪神は驚異の粘りを見せて1点を奪い返し、同点に追いついて試合は延長11回へ入る。皮肉にも、小山のところには打順が回ってきておらず、続投可能な状況になっていた。
 そこで藤本監督は、急遽小山を続投させようとしたが、小山は既にシャワーを浴びに行っていてすぐにはマウンドに戻れない。
 そのため、もう1人のエース村山を投入したが、村山も3連投の疲れからか延長12回にサヨナラ本塁打を浴びて敗れる。
 この小山の降板は、その不可解さからマスコミに戦線離脱と騒がれ、それが翌年オフの世紀のトレードにつながったという伝説までマスコミによって作られてしまったのである。


 E世紀のトレード

 1963年オフ、小山と、大毎オリオンズ(翌年から「東京」)の4番打者山内一弘とのトレードが発表された。小山が阪神で176勝を挙げてきた大エースであるのに対し、山内は、本塁打王2回、打点王4回、首位打者1回という数々の記録を残してきた大打者であった。
 当時、これほどまでの大選手同士がトレードとなるのは極めて珍しかった。大毎(東京)オリオンズの名物オーナー永田雅一が小山をどうしても獲得したかったことに端を発したもので、永田でしか成しえなかった奇跡である。
 世間は、これを「世紀のトレード」と呼んだ。
 東京に移籍した小山は、30勝を挙げて最多勝を獲得する。小山は、東京に移ってから3年連続で20勝以上を記録するなど、東京でも大エースとして君臨し続けた。
 また、阪神に移籍した山内も、移籍1年目から31本塁打、94打点の活躍を見せ、「世紀のトレード」は、両球団に大きな効果をもたらしたのである。


 F2度完全試合を逃す

 阪神にいた1956年6月6日の大洋戦、小山は、1回に先頭打者の沖山光利に安打を許したが後続を打ち取り、順調に滑り出した。好調だった小山は、2回から1人も走者を許さず、9回を投げきった。沖山に安打を許さなければ、完全試合となっていたというほぼ完璧な好投だった。
 9年後の1965年7月15日、東京に移っていた小山は、阪急戦で1回から好投し、8回まで1人の走者も許していなかった。しかし、9回2死後、最後の打者にするはずのウインディに初安打を許し、またしても完全試合を逃したのだった。
 結局、小山は、現役を通じて320勝を挙げたが、完全試合やノーヒットノーランとは無縁だった。


 Gコーチから現役復帰

 1972年限りで現役引退した小山は、翌1973年から大洋のコーチとなっていた。しかし、この年の大洋はリーグ最低の防御率で、投手力に大きな不安を抱えていた。
 そのため、小山が急遽、現役として復帰。15試合に登板し、4勝4敗、防御率2.55というまずまずの成績を残している。
 しかし、小山は、1年限りで再び、現役を引退。2度とマウンドに立つことはなかった。



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